■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.32 なに故に三十三所か


 そして、これが洛陽三十三観音霊場を巡礼した証の先達証、輪袈裟、そして先達に授与される新たな朱印帳だ。
 今更ながら、洛陽三十三所観音巡礼について軽くふれてみる。
その起こりは古く、平安末期、第77代の後白河天皇により定められたそうな。
近畿には西国三十三所巡礼があったが、広域で大変なため、それに代わるものとして京都の洛中周辺で、もう少し身近に観音巡礼が出来るようにと言うことだったと思われる。
 室町期には、現在とは違う順路で定着したが、応仁の乱の戦による災禍が都ごと呑み込んで、もろとも衰退を余儀なくされた。
 江戸期に再開され、寛文五年(1665)、第112代の霊元天皇の勅命により、現在と同じ巡路に定められ定着したのだという。


 幕末・維新を経て近代化の時流と明治、大正、昭和の発展と喧噪の中に忙しく生き続けた人々の心から、巡礼も忘れ去られたようであったが、「心の時代」と言う言葉と共に、今一度立ち止まり、その「心」を取り戻そうと言う心もちになったのか、とにかく洛陽三十三所観音巡礼は三度目に「平成の復興」となり巡礼の人々も帰って来た。数年でその数も増えていると思われる。



 そもそも私が、洛陽三十三所をゆく、と決めたのは、可能な限り京都を知る、と言う目的の為だった。巡礼札所になっている寺院も、うまい具合に市内全域に点在しており、サイコロを転がしたり、ダーツを投げるよりは、はるかに目的に合っている様に想えたからだ。我ながら。良い着眼だったと、今は、思える。


お陰で、各巡礼先の寺院の寺伝や、関係者の皆さんのお話などから、京都の歴史や、歴史上の人物の後姿や横顔を良く見れた。
これは、ともすれば時流にのって現代に黄泉帰り、人々に勇気をくれ、町の活性化の先導と成ってくれるやも知れない、大切な偉人達である。



 今思い出すだけでも、あのお寺は、平清盛がいた、あそこには幕末に月照(げっしょう)和尚と西郷隆盛を逃がそうと奔走した、近藤正槙(俳優、近藤正臣さんの曾祖父)の碑があった。あれが新撰組の駐屯所、あそこが会津藩の兵千人が待機した、こっちは水戸藩士、あと、紫式部に建礼門院が・・・・と次々に記憶をたぐれる。無論、札所寺院の周辺や、その間も歩いたので、京都の地理も体に入った。


 道中。腰を下ろして京都の町の作られ方やその精神に想いを馳せたり、人や交通、商工業などを観たりもした。
 行くに伴い市バスの路線を大かた覚えてしまったのは、非常に重宝した。
例えば市バスの系統番号だ。若い番号は、市民の生活や通勤のため、いろんな道をゆき各停するものが多い。一方3桁の番号は、著名な寺院の多い、東山や北山方面を行き、観光客用になって、急行となったりもする。
乗りなれれば疲れている時は次のバスを待ったり、一つ上の乗り易いバス停を選んで混雑をやり過ごしたりもできる。



 市バスはともかく、全体をかいつまんで言うなら、私は洛陽三十三所(だけではないが)を通して、京都の全寺院や歴史は、国民の共有財産であり、大切に保護し、文化的価値を常に見直し。文化(文章化、碑文化、伝える)して行く。そういうこつこつと次の世代へ伝えて行く体勢を取れば、必ず観光客のみならず、市民のために成り得続ける。
そして、交通機関等の整備は、欧州のそれの如く。柔軟に考え、公共財と思い整備の方向性を環境と市民生活への負担軽減を想うものに変えてゆくか、もしくは、今現在も、市電と自動車を、的確に共存させ得ている、地方都市を、小京都として見直すことも良いと想われる。


 そうすれば、京都という多くの事柄(歴史、経済、交通、商工業)が重なり、織り成す古都も、古き良き物と新しいものが更に上手く融和し、世界に向けて、さりげなくも上品に胸をはれるようになるに違いないのであります。


 これは余談だが、時代劇に出てくる隠密(おんみつ)が行者や巡礼者の格好をしている訳が、わかったように想う。昔は巡礼者や行者、お伊勢、金比羅参詣者が、比較的にご公儀にあやしまれにくく、歩いてくに境や関所を通れた。歩けばその分情報も入る。隠密でなくとも、巡礼者、旅人を優遇すれば、他国の様子を知り得たし、気付かなかった物の見方についても話が聞けたに違いない。



 実際に観て歩く事は、実に有益なのである。巡礼と言う文化に感謝である。
何かを導かんとする人は、不況を連呼せずに、原点に立ち帰り良く観るべし。
一番骨の折れる部分を、他まかせにして、抽出した物を集める事を良しとし、そんな人間を珍重する。
 本来、何かを産み出すためには、心、頭、体を動かし、一つ一つ礎石を積み上げる人間がいるからこそ、城も建つのであって、それを忘れて、型、公式のみ先行し、内容がともなわない世は必ず瓦解する。それを思い出したい。


 これにて、私の洛陽三十三所観音巡礼は、結びとしたい。勿論、中・大先達を目指すが何かあれば、また書きたいと思う。
 「日本は物質的に裕福だが心が餓えている」と言ったのは、マザーテレサだったか。私もその社会で、闇を手探りで生きて来た一人であるが、大きな二つを学んだ。


 こつこつ積み上げれば何かが観えてくる。
 人に礼と義を以って、色々教わりながら歩く事。


この洛陽三十三の途中、腰を下ろした三条通で確信できた。そんな貴重な機会を許してくれた人々にも心から感謝したい。




■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.31 満願確認と先達公認

振り出しへ戻る。 六角堂にて満願確認と先達公認


京都駅から市バス17系統に乗り、「三条川原町」で下車。三条通を西へ入り、六角堂へ向かいたい。六角堂は、ほぼ烏丸通に面しているので、地下鉄烏丸線が便利ではあるが、バスで町の景色を観ながら行きたい。三条川原町から歩くと丁度良いよりだし、道中の三条通を歩くのが楽しい。あの通りには、明治・大正・昭和と古い建物のファサード(外観)が残され、粋なカフェも多い。

中京郵便局や京都文化博物館の屋根だけをじっと観てから、目線を下げると、道行く誰もが和装の紳士や車夫、ハイカラさんのよな、女学校生に変わってはしまいか?と言うタイムスリップ的な空想に入り込みそうだ。こうまで自然に、日本の近代と現代が融合しているのも三条通の良さだ。


洛陽三十三所観音巡礼の第一番札所、「六角堂」へ戻った。他にも満願の確認と先達公認の案内を頂ける寺院はあるが、双六で言う、「ふり出しへ戻る」にこだわりたい。
早速、本堂へ一礼後、ご朱印所へ行き、一番〜三十三番までのご朱印を係りのおじさんに確認して頂く。

先達公認のための用紙には、先達心得のような事が記され、署名をするようになっている。加えて、振込み用紙を頂いた。二週間以内に5千円(23年7月現在)を入金すれば、先達と認められ、先達証、輪袈裟、先達が持つご朱印帳が送られてくると言うわけだ。


私が始めた頃には無かったが、このところ巡礼者の数も増え、「中先達」、「大先達」という制度まで出来ている。
「もう中先達、大先達さんなんて方々をご覧になられましたか?」と問うと、「いや〜、この洛陽三十三が復活して数年、中・大先達を公表したのが、去年辺りですからな〜。これからどすな。せやけど、中先達さんはお見かけしましたな〜」と、教えてくれた。
「ご確認ありがとうございました。」と、頭を下げ、同じ朱印所内の茶処で、抹茶と六角餅をほうばりながら、この三十三について思い返してみる。


さして、感極まる、と、言う風でもないのだが、道中でかなり京都の地理が体に入った。色んな人にも会い、多少古都からの歴史の中に、先人達の生き様を観れた事は確かだ。それだけでも、三十三を歩く前と後では、何か一つ腹がすわった気さえする。



世の流れを横目で見つつも、自分で観て廻り、観じて、それを文章に残してみると、今度は、今がどうあれ、自分の中から発想をし始めたり、世の中が陥っている、「悪循環」の様な物が、若輩ながら観えてきたように思えるのだが、気のせいだろうか?劇的に変わった訳ではない、が、何かが変わった。

これが、ご朱印のみを集め、何日で行った。などと言うのでは、体の鍛錬でもない限り、スタンプラリーと変わらないだろうが、一寺々々について私なり文章にも書いてみた。

歩けば必ず道は出来る。振り返れば応用できる何かを紡ぎだせる。そんな信念を持ちたいものだ。


一度目には気付かなかったが、六角堂の後ろ側の太い格子の間から、阿弥陀、不動、毘沙門、弁天など、沢山の仏像が灯明ほどの明るさで、ぼんやり見える。「こういう事なんだよな〜」と思わずつぶやく。ぼんやり見えるだけで十分なのだ。

さて、もう一度あの麗しき近代の香りがする三条通を戻ろう。せっかくだから、中京郵便局で先達公認の振込みを済ませる。今は振込用紙もATMで出来るんだな。入金が終わった機械の前で思わず拍手をしたら、見えていた局員さんが笑っていた。


少し河原町方面へ行った、コンビニのベンチで一服すると、そこへ上司のH氏が通る。いくら同じような活動をする仲間でも、広い京都の町中で、それもピンポイントで会うなどとは、私はほとほと、この人に縁があるに違いない。実際この人から多くを学んだ。頭脳明晰にして、我関せずといった風情で居ながら、その実、熟慮断行する熱い男だ。

「お〜、森さん、どうですか〜昼飯でも〜」といつもの屈託無い笑顔。
「そうですな、ほなHさんのおすすめの行きましょかぁ。」
さすが、京都中のカフェを知っている彼が連れて行ってくれる所は、一味違う。私ならすぐに、提灯やら、暖簾をくぐってしまうところだが・・・・。


三条通は歩くだけでも気が晴れる。
私の洛陽三十三所観音巡礼は一巡した、が、この先も何処かを歩く。歩かねば道が出来ないことを知り、歩けば必ず道が出来るという事を、確信しつつあるからだ。決して楽では無いのだが、楽しんで歩きたいものだ。

場所名: 六角堂頂法寺(Rokkakudou)
参拝時間:6:00〜17:00(Open)
拝観料:無(Admission Free)
電話:075-221-2686
住所:京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【市バス】京都駅乗リ場A2から205系統「四条河原町経由 北大路バスターミナルゆき」、17系統「河原町通経由 銀閣寺 錦林車庫ゆき」、4系統「深泥池経由 上賀茂神社ゆき」に乗り「河原町三条」下車、楽しげな三条通を西へ徒歩10分
【電車】市営地下鉄烏丸線「烏丸御池」下車徒歩3分←最寄
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.30 満願。第三十三番札所「清和院」

満願。洛陽三十三所観音巡 第三十三番札所「清和院」を訪れる。



 京都駅前から、市バス50系統で西洞院(にしのとういん)、堀川、と北西を目指す。50系統は座れることが多いので良い。そしてバスは中立売を西へ入り、千本中立売のバス停で下車する。



 昭和の風情を残す賑やかな北野商店街を通って三角形の広場へ出た。昔、市中をチンチン電車(路面電車)が走っていた。(明治28年〜昭和36年)商店街の道をいっぱいに使い、満員の人々を乗せた、にこやかな喧騒が目に浮かぶようだ。余談になるが、明治28年ごろ既に市電を走らせた、日本初。これには琵琶湖疏水蹴上発電所からの電力が使われていたと思われる。当時この国の首相は伊藤博文、清国とのいくさの真っ最中と言えばどんな時代だったかピンときて頂けるだろうか。

 その広場の木陰に座り、ポケットの中の広辞苑で「清和」と引いてみた。「清和院」、「清和源氏」、「清和天皇」とずらりと並ぶ。これほど縁(えにし)の深いキーワードが並ぶのも希(まれ)ではないか。まさに、三つのワードが、清和院の縁起と風雅な由緒を物語っている。

時代と想像は清和院に関することへ飛ぶ。

 あの壇ノ浦(下関)で、平家を打ち滅ぼした源氏の棟梁、源頼朝も、牛若丸でお馴染み義経も、清和天皇(56第)の子孫である。清和天皇の第6皇子、貞純親王の子息が、経基(つねもと)と言い、彼以後が帝より「清和源氏」の氏(うじ)を賜り、名実共に貴族武人となった。

 元来、侍の姿とは、帝の血を引き、心から帝と都を守り奉る武人らが、あるいは、中世の戦国武将より、正しい姿だったのかも知れない。
 若き日の足利尊氏も、四条あたりで競馬(きそいうま)に興じながら「我こそは源氏の血を引く者なり」と自分を奮い立たせていたに違いない。




 さて清和院の話である。前述の清和天皇が皇位を次へ譲位し、余生を過ごしたのがこのお寺の名前の由来だとか。今は真言宗の小さなお寺だ。

「まずは聖観音さんにお参りや」と、本堂をのぞく。中央最奥には見上げるほど大きな厨子。扉は閉じられ、表に大きな菊のご紋。「あの中に居やはるのやな」。

左側を見ると、真言宗のお寺らしく、古くて見事な不動明王、八臂(はっぴ)の弁財天、毘沙門様に、大黒さん。黒光りとはこのことだ。おそらく、長いこと、いずこかの護摩堂に安置されていたと思われる。


右に目をやれば、小ぶりながらも、荘厳な阿弥陀三尊来迎も立像。

これがまた、今まで見たことが無い角度で前にせり出している。例えるなら、マイケルジャクソンのムーンウォーカーぐらいの前のめり。

両脇を固めるは、合掌をし、ほぼ中腰の観音と、バレーのレシーブのように盆をもっている勢至菩薩。

動かぬ仏像にして、こけそうな子供にさっと手を出そうとする母親の如き慈しみと勢いを感じる。 阿弥陀三尊は往々にして座像で、両脇の仏が膝を浮かせるなどして、救いやお迎えを表現するか、立像でも足を一歩前に出すにとどまるものが多い。

しかし、ここで観たものは、躍動感と優しさを湛えている。
あとは、気になるどこか不思議な木造の地蔵菩薩が厨子の前に一体。

まあ、仏像ほど眼で観て、感じるに勝るものは無い、ので筆者が感動したと言う事が伝わればうれしい。仏像ファン方にはぜひ観ていただきたい仏様ばかりだ。


ようやく最後の三十三番札所のご朱印を頂きに事務所へ。

寡黙そうなご住職に、「あのぉ阿弥陀様の角度は圧巻ですね」と言ってみる。眼鏡のフレーム越しに私を見て笑顔になられた。

「このお寺の仏さんにも、色々面白い謂れが有りましてねぇ」と、寺の由緒から、明治の廃仏毀釈までの壮大なストーリーをほぼ聞かせてもらった。

 ご住職曰く、「聖観音さんは、五尺五寸(154cmほど)やから、等身ですわな。今は九州の国立博物館に居はります。皆さんには堂内のお写真で観てもらってます。」と、朝日新聞の一面写真を見せていただく。

「あのお地蔵さんね、清和天皇に似せて造られてます、天皇さんやから、お外へ出て頂く事はなかなか無いので、錫杖はお持ちでない。」

なるほど、不思議な感じは錫杖かぁと思うのだが、まだあった。

「あとは、眼に玉眼が入ってますね、昔は極彩色やったんですね、まあ、真言宗に来はったんで、護摩焚きますやろ、きれいに黒光りしてますわ。そうそう、観音様の洗いも大変でしたなぁ」と、笑っておられた。

その後、清和院が元々、京都御所の北東にあり、蛤御門同様、「清和門」が今も残っている事、江戸末期の御所の火災で現在の北野、七本松一条へ移った事、観音様は一条鴨川西岸にり「川崎観音」と呼ばれていたが、これまた1531年の火災で清和院とのご縁が始まった、と、言うように、小一時間は話をお聞きしたが、それこそ京都の名所や歴史に及ぶので、割愛させていただく。が、とにかく楽しいお話だった。

 さて、ご住職に良くお礼を申し上げて、清和院を後にする。また北野商店街の三角形の人場で腰を下ろす。

 
そこには、出雲阿国、宮本武蔵、土蜘蛛(土雲)塚に関する案内板がある。心のこもった手書きの物だ。

これ、これ!これこそが町に文化的、歴史的いろどりを与え、いつしか人が来るかも知れない第一歩。私のように外から来た者でも、この様な案内板が有るだけで、「次は近くのお店で団子でも食べて、ここを起点に散策しようか。」などと、初めての土地にも知らず内、愛着のようなものを感じてしまう。

清和院のご住職しかり、この商店街にしかり、労力を惜しまず、口伝、文章で土地の歴史文化や良さを教えてくれる人をこそ!私は本当の「文化人」と呼ぶべきなのだと思う。

おこの北野界隈の話、またいつかの機会に。とても大切なことだから。

さて、さて、次は洛陽三十三所観音巡礼、満願の証明と先達の公認を頂にもう一度、六角堂へ行こうと思う。

場所名: 清和院(Seiwain)
参拝時間:9:00〜16:00(Open)
拝観料:無(Admission Free)
駐車場:無
電話:075-461-4896
住所:京都市上京区七本松通一条上る一観音町428-1

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【市バス】京都駅乗リ場B2から50系統「北野天満宮経由  立命館大学前ゆき」に乗り「千本中立売」下車徒歩2〜3分
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.29 廬山寺 ご縁とはかくも不思議

 今日は洛陽三十三所観音巡第三十二番札所「廬山寺」を訪れる。


府立医大前の大きな交差点西へ、広小路へ入る。京都御所へ続く5月の新緑まぶしい道。まさに五月(さつき)晴れと言いたいが、五月晴れとは旧暦の言葉、つまり6月の梅雨時らしい。

仁丹の看板が現在地を教えてくれる。なるほど、私は府立医大から西へ入り、寺町にぶつかった。ちなみに京都では東西へは「入る」、南北へはそれぞれ「下がる」・「上がる」と言う。地図を見て説明するごとく。メイン通りの寺町から言うと、今いるのは「広小路通寺町東入」となる。一見ややこしそうだが、歩きなれてくるとこれほどやさしい説明はない。これも京都文化の一つと言えるのでは。


ここから北へ「上が」り寺の門が見えてきた。ふわふわとそぞろ歩きで来たものだから驚いた。この廬山寺、あの紫式部が「源氏物語」を執筆し住んでいたところだったのだ。
「ここで、紫式部に出遭うのは少々手に余る」と聞いたような台詞が頭を横切った。何しろ時空を超えて存在できる稀有な文豪であり、ユネスコですら世界五大偉人として認識している天才である。


門をくぐってまずは、大師堂へ礼拝、「如意輪観音菩薩」に万物安堵を祈願する。

ご詠歌「これもまた くらいもたかき てんのうじ さながらにはや くもいなるらん」

いつもなら、寺伝などを読みご朱印をいただいて帰るところだが、紫式部のおわした所なれば、じっくり観て行きたい。「源氏庭」と言う。ご朱印と合わせて拝観料を納め入れていただく。はたと目につくのは、まぶしいばかりのお庭。白い砂礫(されき)に山を模した苔のコントラストが、やはり、心を落ち着かせてくれる。通り抜ける5月の風と、紫式部がのこした文化の香りには、まさに風雅と言う言葉がぴったりくる。

ここがその場所である。と、言う事は、古大学の大家にして平安の世を愛しておられた角田文衛博士の考証(昭和40年)発表によって広く知られるようになったそうな。また大正14年には英国の東洋学者アーサーウェイリー博士の英訳による源氏物語が世界的なベストセラーにしたという。ますます考古・文学の香りがしてくる。

関東からの女子校生だろう、紫式部関連の展示に見入っている。「あの絵巻物は本当にレプリカなんですか?」と寺の人に聞いている。「そうです、絵巻物は巻いても広げても保存が難しいし、大切なものですから」と言う会話が聞こえた。

縁側に座り見回すと、行儀の良い女子校生、ご法要にこられた喪服のご家族、お坊様に、枯山水。2年近く京都を歩いているが、こんな光景は初めてだろう。

さて、この廬山寺とえにしが深いのは文学だけではない。長い歴史を通して朝廷、宮の人々ともえにしが深い。たびたび戦場となった京都、いくさ火による消失を免れることが難しかったのは言うまでも無い、が、しかし、天下人や国が変わる時に生じたこのお寺存続の危機を2度、天皇側によって辛くも免れている。何か見えざる力に守られているのかと想ってしまう歴史があるが。それには寺伝を紐解く必要があるので、お付き合い願いたい。

開山は元三大師、比叡山天台代18世座主(938年〜947年)、天慶と呼ばれた世に京都北山の船岡山に草創される。後に、法然上人の弟子、覚瑜が寛元元年(1243年)に同じく船岡山に再興し慮山天台講寺と号し、道俗貴賎と身分の問いなく人々が集まったという。


室町時代、応仁の乱には同じ船岡山に城塞が築かれ戦火を逃れることは出来なかった。しかし特筆したいのはここからである。元亀(げんき)・天正(てんしょう)と言えば、ご存知信長と秀吉の世、特に元亀3年(1571年)信長による「比叡山焼き討ち」。比叡山に関係する寺院は焼き討ちリストに入れられ、この廬山寺も対象にされた。しかし、正親町(おおぎまち)天皇の側近女官がしたためた書簡によってこの寺の焼き討ちは取りやめられた。世に言う「女房奉書」と言うものだ。

よほどの名文だったのか、いや、信長はそんなことでは納得すまい。なんでも女官が文書を渡したのは明智光秀だったらしい、それこそ『明智なら是非もなし』とはこの時点からだたのか?
いやいや、きっと、石山合戦(今の大阪城の位置)でのいくさに手を焼いて、正親町天皇の御名のもと和睦(わぼく)という手段をとったことへの借りを返したのか?などと詮無いことを想ってみる。

そして、天正には秀吉が京都に入り、寺町を造成する、このときから廬山寺は船岡から、御所の真横、寺町に移ったといわれる。いみじくも、その場所が同じ宮(みや)の女官・女房のであった紫式部のいた場所であったのは偶然だろうか?私には、正親町天皇の女官の「女房奉書」にこめられた想いが紫式部の心を打ったような気さえする。

ここで時代を明治まで下る。明治初年に起こった廃仏毀釈では、仏教排撃、神仏分離、神道国教化の大波が起こる中、明治天皇の御意により、勅使が出され、「昔から宮中の仏事・法要を執り行った四ヶ寺の一つである」とのことから、復興さえされている。


この四ヶ寺だが、他には、右京区の二尊院、北区の遣迎院、上京区の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)であったそうな。

そしてもう一つ、突然時代が遠くさかのぼるが、用明天皇の御代、聖徳太子が北野天満宮あたりを金山天王寺と呼び本尊として如意輪観音を安置した、その観音様を船岡山にあったころの廬山寺が何かのご縁で本尊とした。残念ながらそのときの如意輪観音は火災で消失したが、鎌倉時代に飛鳥時代のつくりを再現して彫りなおされている。

聖徳太子はこの京都の金山天王寺、大阪の四天王寺、東京谷中の天王寺、伊勢の天王寺をこの国の天王寺、四ヶ寺とした。

さて、女官・女房の位にいた紫式部、正親町天王の女官からの「女房奉書」、宮中の仏事を司る四ヶ寺、そして聖徳太子が建立した天王寺の四ヶ寺。長い歴史とはいえ、これをさっぱりと「偶然だ」と言うのは、非常に勿体無い気がする。

場所名: 廬山寺(Rozanji)
参拝時間:9:00〜16:00(Open)
拝観料:源氏庭 500円(Admission)
駐車場:有
電話:
住所:〒602-0852 京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【市バス】京都駅乗リ場A2から205系統「四条河原町経由 北大路バスターミナルゆき」17系統「河原町通経由 銀閣寺 錦林車庫ゆき」4系統「深泥池経由 上賀茂神社ゆき」に乗り「府立医大病院前」下車西へ徒歩3分
【電車】京阪 鴨東線「出町柳」より徒歩15分、「丸太町」より徒歩20分
いずれも御所を目指し、寺町通へ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




□ 司馬遼太郎記念館にゆく

 私には、一日そこで過ごしたくなる○○記念館がある。
写真、美術、文学などの道を切り開き、大いなる精神の遺産を残して下さった先人、その人自身の存在を全館に感じられる、そんな場所。いわば、そこは私にとって神殿のようなものであり、その先人の懐(ふところ)そのもの。

こころが休まり、孤独を生き抜く勇気を取り戻せる所。

一つは、入江泰吉・奈良市写真美術館。そしてもう一つが、ようやく行けた「司馬遼太郎記念館」だ。ここも同じく、一日中いても飽きない、安堵と勇気をもらえる所だと直感する。


近鉄奈良線、河内小阪駅に着く。記念館への案内図を見つけ改札を出た、が、「あれ?北て、どっちや?」と案内図を回していると、本屋の人が指を指して「あそこに大きな字で、看板が出てますよ。」と教えてもらう。見ると、小阪商店街(スカイドーム小阪)というアーケードの入り口頭上に「司馬遼太郎記念館」と立派な看板。「すごい、町ぐるみだ。」何故なら、目的地までは一キロ近くあるからだ。

活気あるアーケードを見ながら歩く。帰りにあの蕎麦屋に行こうか?など、色々目移りしながら。


商店街を抜け、ほっとするような住宅街に入っても、随所の電柱に案内図がある。「この町すごいな」そう思いつつ、中小阪公園の前を通る。そこには「二十一世紀に生きる君たちへ」という文学碑。「うん、まったくだ」と納得してしまう名文。司馬遼太郎という人には、今の日本社会の様子が予想、あるいは、見えていたのか?と思うほど。


記念館に着く、司馬氏が好んだという雑木林が成すお庭、その日はツツジが鮮やかだった。文を書くには、多くの事典や史料を読んでは整理し、また書く。そんな空(くう)のような思考をとらえるのは、好きであっても骨の折れる作業に違いない。だから氏は、自然に近いこの雑木林の庭を見ながら心をととのえていたのかもしれない。私も、氏が見ておられたであろう方角から庭を眺めて深呼吸をした。


振り返れば、氏が創作を行っていた部屋だ。まさにここで、文と智の巨人、司馬遼太郎が数万の本と、思考という広大無辺の歴史と宇宙を展開しておられたのかー。そう想うと体に電流が走ったように鳥肌がたった。そのやさしい書斎には、未完の作品「街道をゆく-濃尾参州記」執筆中のままで大切に残されている。

館内は明るくさわやか、展示は氏の執筆活動を励まし続けたであろう膨大な事典、日本各地の郷土史やあらゆる史書物がおよそ2万冊。更にご自宅側にはご自身の著書を含めて6万冊。これを一人の人間が読み、書いた。

まるで氏が何を観てきて、考えておられたか、頭の中を見学している心もち。

人間の頭の中は、宇宙のように弘大だがゆっくりとした時間が流れている。時計には刻む事が不可能な時間。きっとそんな時間が大切な何かを育て、良いものを作り出すに違いない。館内の本に囲まれて、そう想った。

恥ずかしながら、本を読み、文をか書き始めたのはここ数年という私。それまではまさに文明ではなく文暗生活だった。しかし、この記念館のように、本棚に囲まれるのは心地よくてしようがない。書店や図書館のそれと違うのは、氏の着眼で収蔵されたからだろうか?

一つ思い出す。子供のころ、よく円形の部屋の壁を埋め尽くす本棚に可動式のハシゴをかけて、読みあさる夢を見ていた。

もちろん館内の本はイメージ展示であるから、触れることは出来ないが、あの夢の感覚に似ている。が、しかし、記念館は私の夢の想像など軽く超えている。本を見上げると、そのまま後ろへ倒れてしまいそうだ。

「後ろへコケそうになりますね〜」と学芸員さんに会釈すると、「これ、読んで見てください」と、大きな明かり取りの窓がある壁際に案内してもらった。

読む。「え〜ほんまですかぁ?」、観る。「うわっほんまや!」。
それは、驚きと共に楽しくもあり、温かくもある物だったが、それが何であるかは、行ってのお楽しみにしておきたい。

聞いたところで、この「へーっ!」は伝わらないからだ。
個人的には行く人の目で直接見て欲しい、家族にも、知人にも「おもろいし、ロマンがあるから見てきいや」と言う事にしたい。

それにしても良いパンチだ。

1Fに戻る。小さなカフェの横には氏の作品の販売コーナー。特にこの記念財団からの選書である。大きな本屋でも見つけられなかった本もある。

すべてに司馬氏の、あの座談的で気さくな何かを感じる。数年前NHKで再放送された番組、ダンディーなスーツでソファーに座り、JazzyなBGMが流れ終わった直後に、「え〜、司馬でござぁ〜っす」という、あれ。

TV的演出では何か、大先生をお迎えして・・・という雰囲気で視聴者を構えさせるようだが、じっとカメラ目線で待った後の一言の挨拶で、肩の力を抜かせ、気付けば話に聞き入ってしまう、あの感じ。


私は歴史に明るくない上に、他の愛読者の皆さんにしかられるほど、氏の作品を知らない。が、氏の対談や座談的な物腰や、実際に歩いて踏査のうえ、氏が愛情と冷静の間で観じた「土(国)や人への想い」、そのありようが大好きで、つまりは、大変失礼ながら、氏の作品の前に、ご本人の人となりが好きなほうだ。

早速、書籍、Goods売り場で、記念館の「サポート会員(個人)」に入会。一般会員でも良かったのだが、それは、そこ、氏へのリスペクトと記念館の永続を心から願って。

記念館パンフから少し引用したい。
「また、多くの人々の参加で新しいコミュニケーションの輪を広げたいと願っています。建設のさい募金を呼びかけましたのもその一環でした。(略)ともに文化を育てたいという思いもありました。」

私は大いにその考えに賛同したい。何故なら今日の日本は、読み書き話すという文化の低下で、思考とコミュニケーションを失い、色々の問題を抱えてしまったのだと、想うようになったからだ。


今回は「二十一世紀を生きる君たちへ」を購入し、その文学碑の横で、つまり帰り道の中小阪公園で読んだ。

「ええ、先生、今この土(国)は先生が心配されたようになりながらも、先生の信じられたように、皆あきらめずやってますよ」と、もしこの世紀の町角で私が、司馬遼太郎氏に問われたら、きっとそう答えたい。


| 1/49PAGES | >>

カレンダー

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930   
<< November 2011 >>

最新の記事

記事(カテゴリー別)

記事(月別)

最近頂いたコメント

  • ■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.30 満願。第三十三番札所「清和院」
    Morichan (07/20)
  • ■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.30 満願。第三十三番札所「清和院」
    Morichan (07/20)
  • ■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.30 満願。第三十三番札所「清和院」
    かっちん (07/20)
  • ■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.30 満願。第三十三番札所「清和院」
    みぃちゃん (07/15)
  • ■ 薩摩、湯治旅の記 Special Thanks #2(人物編)
    morichan (06/02)
  • ■ 薩摩、湯治旅の記 Special Thanks #2(人物編)
    nozomi (06/01)
  • ■ 京都見る歩く(丹後編)Vol.2 旧三上家住宅
    morichan (12/07)
  • ■ 京都見る歩く(丹後編)Vol.2 旧三上家住宅
    泉和子 (12/07)
  • ■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.17 法性寺
    morichan (12/06)
  • ■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.17 法性寺
    かずお (12/06)

とても良かった

ある日どこかで [DVD]
ある日どこかで [DVD] (JUGEMレビュー »)

クリストファー・リーブ主演。恥ずかしながら、唯一見て感動してしまった。後にも先にもコレに勝る恋愛映画を知りません。不運な事故でさぞ辛い人生だったでしょうが、彼は最期まで本当のスーパーマンでした。勇気と信念を教えてくれた名俳優さんです。

とても良かった

禅 ZEN [DVD]
禅 ZEN [DVD] (JUGEMレビュー »)

待望の映画DVD化です。
オープニングだけで既に泣いてしまった私は変わり者?

とても良かった

シャイン [DVD]
シャイン [DVD] (JUGEMレビュー »)

生きるとは?と問うてしまう時は見てください。苦難の末、体いっぱいで喜び、感謝の涙があふれるピアニストの波乱の人生。

リンク

プロフィール

このブログ内で検索

others

携帯QRコード

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM