■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.13 二条城二の丸御殿、歴史の潮流、美しい襖絵。

 ■ 二条城二の丸御殿、歴史の潮流が駆け抜けた屋敷。美しい襖絵。


いよいよ天下を太平ならしめたのか、秀吉が築いた大阪城に続き、2つめの平城となり、性質的にはさらに徳川が西国の諸大名に建築を命じた事からも、いよいよ公家に侍っていた武士たちがその型を守りつつも、御所近くまで間合いを詰めたとも言えるのか。

その敷地面積27万5千平方メートル。ことに、この京都の都に作るからには、物理的防衛要素は目立たぬよう機能させ、しかも、経済、政治的面での拠点の一つと数えても支障ない物へと高めたのか。

などと始めてしまうと無粋だと思えるほど美しく外国からの観光客も、日本人でも思わず息を飲んで見とれてしまうのがこの二条城二の丸御殿ではないだろうか?


古くも、美しく長い廊下は有名な「鴬張り」。人が歩くたびにキコキコと高い音をたてる。人が多いとそれほど気にならくなるのだが、説明を読み込んで一人になった。気持ちが次の部屋への期待に向いたとき歩き出せば気づく。是は人の往来が無くなり、静まれば静まるほど、余計に遠く、高く響く音なのだと。良く出来ている。

二の丸御殿の各部屋には今で言う、セキュリティから、それをクリアした後の受付、そして、どんどん御用向きの重要度をまして将軍様のおわす間まで距離を縮めていくようだ。勿論、ことあればすぐに数十人の隠れ武者が将軍の盾と鉾になれる場所に詰めている。

各部屋の目的や、詳細ましてやその美しさについては、筆舌しがたく、京都へ行くなら是非ともその目で見て体感していただきたい。


私が感じたところだが、各部屋は「式台の間」のように登城の受付や将軍様への献上品受け取る場所に始まり、外様大名と将軍、譜代・親藩大名と将軍と言うように、謁見・対面する階級と目的にあわせて造られ、当たり前だが将軍の座は常に一段高くなっている。書く広間飾る意匠は「桃山時代武家風書院作り」と言う、格式と豪華さには目をみはりまた妙に落ち着く。

各部屋の襖絵はその時代の日本画美術を一世風靡していた狩野派一門の絵師が渾身の筆で描いたもの。見て周って感じたのは、その襖絵には精神的効果と何らかの意図があるのでは?ということ。


老住職が登城者を受け付ける部屋や、外様大名たちとの謁見の広間には、落ち着きがあって気が引き締まる見事な枝ぶりに金箔を背景とした松の襖。枝の間で当時この国にいなかった寅や豹がにらみを利かせる。狩野派の人々が毛皮を元に描いたのだとか。まるで訪問者に「落ち着き」と「威圧」の両方をしめす如く。

そうかぁ、この大広間で徳川家が豊臣家に「今日から正式にうちの家臣ねぇ」と名実ともに侍のトップであることを知らしめ、慶応3年10月(1867)「帝に全権をお返しいたすぅ」と「大政奉還」が発布されたのだなぁと思う。歴史の潮流が通り過ぎたその場に立ち、目撃するが如く感慨もひとしお。

少し変わって、譜代・親藩大名との間では襖絵に花をあしらい、落ち着きと華やかさが香ってきそうだ。あたかも「権威」と「親交」の印象の中、敬いと将軍のためになる意見が出やすくしているように思える。

さらに廊下を進みはっとしたのが、二つの部屋。一つは将軍が通常おわす「白書院」。寝室にもしていたと言う。ここの襖絵は以外にも水墨画。将軍様とて人の子。普段は落ち着きたいと思ったのだろうか?


もう一つが「勅使の間」、将軍が朝廷からの使者が会うのだ。この時だけは将軍とて一段下座に座ると言う。征夷大将軍とは言え、終始「侍う」と言う「体面」は貫かれたのだ。
と思うと、なるほど、幕末の争乱の中どうあっても錦の御旗を敵に回したのだと悟った時の侍達の動揺は理解に難くない。時勢がどうで自分の考えが同であろうと、侍である以上はその大義名分が染み付いていたのだろう。何せこの二条城「勅使の間」の段差に見る「侍の姿」は、真心であったか、名目であったかに関わらず千年も続いたのだから。


広間に置かれた侍たちの人形が当時を再現しているがじっと見ると、歴史物語のように思えた事が実際であり今日の今ここと繋がっているのだと実感できる。冷え切った体を大きな休憩場に飛び込ませ、甘酒で暖める。二の丸御殿の美しさは幻想のように・・・。さすがは世界遺産。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 二条城(Nijyoujyou)
参拝時間:8:45〜16:00(Open)
入城料:600円(Per Adult)
駐車場:乗用車 210台 2時間まで600円以降1時間ごと200円
電話:075-841-0096
住所:〒604-8301 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541

※7、8、12、1月の火曜日は休城(休日の場合は翌日)

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【市バス】京都駅乗リ場B1から9系統「堀川通経由 西賀茂車庫ゆき」、乗り場B2から50系統「北野天満宮経由 立命館大学前ゆき」101系統「北野天満宮 金閣寺経由 北大路バスターミナルゆき」で「二条城前下車」すぐ
9系統比較的時間正確、本数多し。101系統本数少なし
上記3つの系統から都合の良い時間を待って乗ってください。
【電車】地下鉄東西線「二条城前駅」下車数分
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■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.12 こころ安らぐお庭でお食事を。

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.12 こころ安らぐお庭でお食事を。がんこ高瀬川二条苑


河原町御池通にある京都市役所前の喧騒から、一筋東に入るとそこは昔の京都を思わせる有名な高瀬川がある。それは昔京の都に物資を運ぶための運河だったそうな。
ここ「木屋町二条下る」はその川の上流のほうで、行き来する高瀬舟が方向を変える重要な場所。この運河を手がけた江戸初期の豪商「角倉了以(すみのくらりょうい)(1554〜1614)」氏の邸宅があったそうな。

静かな高瀬川の「一之船入」から少し北にある「島津製作所 創業記念館」で維新以降の科学の歴史を堪能したあとちょうど昼食時。道の向かいにある「がんこ高瀬川二条苑」へ入ってみる。


この場所は以前から「角倉了以別邸跡」と石碑があったので、気になっていたが中へ入ってもう一つおどろいたのは門奥にある「山縣有朋第二無鄰菴跡」の石碑。そこのすばらしいお庭と豊富な水のある場所は京都の歴史を垣間見れるすばらしいところ。


380年前「角倉了以」別邸であったこの庭園は後にあの明治の元勲にして近代庭園の愛好家「山縣有朋」の別荘「第二無鄰菴」となり、さらに第3代日銀総裁「川田小一郎」氏の別邸になり、数人の所有をへて現在の「がんこ二条苑高瀬川源流庭苑」となってるらしい。
お店の方に聞くと勿論「無鄰菴」を手がけた小川治兵衛(おがわ・じへえ)のお名前も出ていた。


「角倉了以」、「山縣有朋」、「小川治兵衛」のファンなので、この場所でこのような美しいお庭を眺めながら美味しいものを食べられるとは幸せのきわみと言うもの。特に山縣有朋の無鄰菴が複数あると言う事を知りながらどこに在るのか解らなかったのでうれしかった。門の奥、それは解らないはずだ。


受付で着物姿の店員さんに名前を聞かれ、テーブルの用意が出来ると「○○様ご用意ができました、こちらへ」と案内される。見ると広い庭が綺麗だ。入ったものの、これは少し奮発しなければならないか?と思ったがお値段も普通のランチと変わらない。これはすばらしい。廊下に漂う御香は大好きな「堀川」だ。


季節によって、春は梅、夏には蛍、冬には雪景色が見れるという。
最近「がんこ」さんが京都で細やかなもてなしをされていると知人に聞いていたが、そのなかでも最高なのではないだろうか?
そばとてんぷらの定食を頂いた後、お庭を歩かせていただいた。いやすばらしいお庭です。

営業時間」 11:00〜22:00(ラストオーダー 21:30)

【交通】
京都駅前A2乗場から市バス4系統、17系統、205系統「京都市役所前」下車、徒歩2分
二条通を東へ木屋町通まで歩くか、風情たっぷりの押小路通を東へ行き「高瀬川一之船入」を左に観て行くのがお勧め。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名:がんこ高瀬川二条苑
住所:〒604-0922 京都市中京区木屋町二条下る東生洲町484-6

最寄交通機関
市バス:京都駅前A2乗場から市バス4系統、17系統、205系統「京都市役所前」下車、徒歩2分
電車:地下鉄東西線「京都市役所前」2番出口 下車徒歩約2分
京阪電車「三条」下車 徒歩7分



■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.11 島津製作所 創業記念館

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.11 島津製作所 創業記念館


(河原町通の島津製作所元本社ビル)
京都市役所のある河原町通の喧騒から一筋東に入るとすぐに風情ある木屋町の高瀬川沿いの道だ。付近には高瀬川とえにしの深い「角倉了以(すみのくら りょうい)」氏の邸宅跡1554年〜1614年、山縣有朋氏別邸の第二無鄰菴(むりんあん)跡、長州藩邸跡、桂小五郎先生像と京都と深いえにしのある史跡が沢山あるので、それらを見ながら、ここへたどり着くのも感慨深くてよい。


京都でも特に華やかなりし都の時代から激動の幕末・明治維新という歴史もようが重なりあい織り成すなんとも心癒される地域にこの「島津創業記念資料館」がある。


維新の動乱で荒廃し、遷都により更に力が弱まってしまった当時の京都復興を望んだ、旧長州藩士で明治10年二代目京都府知事となった「槇村正直(まきむらまさなお)」先生、旧会津藩士で鳥羽伏見敗戦後幽閉中「近代国家論-管見」執筆がきっかけで京都府勧業御用掛となり外国人教師起用などに尽力された「山本覚馬」先生、初代島津源蔵氏の友人にして西洋医・科・物理学を学んだ明治初期の京都府勧業課長でいらした「明石博高(あかしひろあきら)」先生など京都近代化推進をとなえる熱い人々からの追い風が島津製作所の創業を大きく助けたという。

一目見ると精巧かつ独特な形状で作られた実験器具の数々はいったいなんだろう?と思うが説明を読むとどれも思わず「あ〜っ!」と納得してしまう。時代や分野ごとに実験用具や製品がならべられた展示品は、力、熱、光、電気、音、水圧、油圧、蒸気とおおよそ森羅万象に見られるものを物理や科学の目を持って、一つ一つを着実に再現、検証、応用し世のためにならぬものかと問い続けた才あふれる人々の足跡を感じられる。科学のパイオニアとして、疑問に思ったことはどのような困難があっても解き明かしたいと言う気位をも感じさせてくれる。

また教育と言う観点からも沢山の実験道具や科学と工芸をミックスしたような工作品の作り方などが書かれている現在で言う「学研と科学」のような冊子も作られている。一つ特に気に入ったのが「昼夜の長短説明器」と言うもの。平らな円盤の真ん中に大正時代の学校の先生と生徒のようなような人形が空を指さし、太陽や月の軌道をあらわすリング状の軸が地球儀のようにつけられているものだ。そう、観察者は理解をしたことを慈しみの心をもって人や子供に伝えたくなるのだ。

ひたすらにメモを取る私に館長さんらしき方が、何か思ってくださったのか、「何かお気づきの点がありましたか?」
と声をかけてくださった。一時間以上いたせいかどっぷり科学の歴史に浸ってしまった私は「いや〜感動しました奇妙奇天烈な実験器具の一つ一つで科学を解き明かして、今日の科学にしっかりつながっているんですね!」と。「奇妙奇天烈」は余計だったように思うが、それくらい見てて珍しく楽しげな展示品の数々。おそらく天才の脳裏にひらめいたイメージをそのまま具現化し同じレベルに居られる研究員の人々には「お〜」っと一目で解る様に創られたにちがいない。

それらの歩みはやがて今日の医療用XRay、油圧機器、高度分析器具、半導体のような科学の最先端につながっているのだから、先人達の積み上げた土台の一つ一つの強固さと理にかなう知識と経験にはただただ頭がさがる。

島津製作所創業記念館は島津製作所さんや京都の人々の科学への関心の高さと、繁栄への祈りの足跡とが入り混じり、大人が見てわくわくしてしまうワンダーランドです。


(写真は初代源蔵氏)

島津源蔵氏の考え「家庭を壊す人」、「事業の邪魔になる人」といものの箇条書きも時代や業種に関わらず是非一度見に行って読んでみてもらいたい。ものづくりへの飽くなき信念と和を重んじる彼の優しさが見え隠れしている。
いや〜、確かになりましたよ!「ものを作るよろこび」を原動力に「科学立国」・「発明報国」に。またもう一度先生方を見習わないとね!
一つ一つ、気持ちをこめて、何時か土台になるのだと信じたい。

「入場料」大人 300円 中高生 200円 小学生以下無料

「開館時間」9:30〜17:00(入館は16:30まで)
「休館」水曜日(祝日の場合は開館、振替休日なし)、年末年始


【交通】
京都駅前A2乗場から市バス4系統、17系統、205系統「京都市役所前」下車、徒歩2分


二条通を東へ木屋町通まで歩くか、風情たっぷりの押小路通を東へ行き「高瀬川一之船入」を左に観て行くのがお勧め。
(写真 左上「京都市役所」、右上「旧島津製作所本社」、左下「桂小五郎像」、右下「押小路」)

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 島津製作所 創業記念館
住所: 〒604-0921 京都市中京区木屋町二条南

最寄交通機関
市バス:京都駅前A2乗場から市バス4系統、17系統、205系統「京都市役所前」下車、徒歩2分
電車:地下鉄東西線「京都市役所前」2番出口 下車徒歩約2分
京阪電車「三条」下車 徒歩7分



■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.10 東寺 (金堂・講堂と周辺)

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.10 東寺 (金堂・講堂と周辺)


東寺は京都一の古さを誇り、創建は1200年前の平安京のころ。
平安遷都後護国寺(国立寺院)として、時の帝である嵯峨天皇が唐で仏教と新たな密教を学んできた僧侶「弘法大師空海」にその創建から造営まで信頼のもと託したという。


日本初の密教寺院となった東寺はご本尊に大日如来を頂き、ほか様々な信仰のため多くの伽藍、お堂が沢山見られる。

「毎月二十一日」の弘法市(こうぼうさん)は、幾多の災難による塔や伽藍の消失に負けず信仰を持ち続けた庶民が、ささやかながら寄進をし、南大門で一服一銭の茶店を出したことに始まりを持つという。

ユネスコの世界遺産に登録されている。京都最古のお寺がユネスコの世界遺産に登録されていると言う事は日本人のみならず世界中の人々が、人類の遺産とすべくそれをみとめたといっても過言ではない。
なるほど他のお寺には無い独特の古さと趣に強い軸のような物を感じる。五重塔などは他府県から電車で入ってくるときにまず目に着く光景ではないだろうか?


金堂・講堂の仏像がどれもすばらしい。大きさでも、数でもなく、何か別の荘厳さを感じる。においも千年のときを重ねたなんともいえない香り。

一度では観きれない仏像とお堂の数々に加え、季節により咲く花も見える風景も変わるので、それこそ月に一度は行ってみたい場所だ。特に弘法大師をご信仰、ご尊敬される人には大師が住まわれた「御影堂(みえいどう)」にあがらせていただき、落ち着いた時間を感じるのがお勧めだ。


今回は写真を撮ってみて、きれいだな〜と思える箇所が幾つかあった、それぞれの花の季節なら更に美しいだろう。
―こ慘更圓粒慇犬気鵑箚儻客さんは五重塔前にある池の南端から塔をバックに
池の中ほどから、池に写る塔や藤の季節なら右側に藤?
C咾遼銘爾ら池すべてと塔をかさねて。
っ咾旅垢頬漫∧蔵の堀から蓮の葉を入れてまっすぐ塔を見るとすこし、大陸(中国)のお寺のかんじがする。




【購入物】

納経所で、東寺もそのコースに入っている「洛陽三十三所観音巡礼」のためにご朱印帳を購入。それようの、ご朱印帳も販売しているがあえて渋めの東寺のご朱印帳を買う。


納経所ではすでに弘法大師のご朱印がされて販売されているので、まずはそのご朱印を頂戴し「洛陽三十三所観音巡礼」ように買ったので以後は観音巡礼のご朱印のみを入れてもらうことにする。


お土産やさんで、精進生麩「禅」(麩で作られている精進料理、食感も味も牛肉のしぐれ煮そっくり)と、東寺の八橋を買う。

「東寺 金堂・講堂」
●公開時間
 ・夏季 午前8時30分〜午後5時30分まで(受付5時まで)
 ・冬季 午前8時30分〜午後4時30分まで(受付4時まで)

5月26日〜9月19日(金堂・講堂)500円

季節によって、宝物館や五重塔を含めた特別公開の際は拝観できる範囲や
拝観料が異なるので注意。
公開時によって共通券の販売もされています。

【交通】
京都駅前C4乗場から
市バス16系統「八条大宮」or「東寺西門前」6時〜9時代およそ20分おき10時〜16時およそ30分に一本
市バス42系統「東寺東門前」1時間に一本毎時10分
市バス19系統「東寺南門前」1時間に一本毎時52分
下車がおすすめ。
上記系統のバスは、系統番号が黒文字で、均一区間外への出入りをするバスなので、一日パス(当日初使用)なら乗るとき一度、機械に通す。現金の場合乗るときに整理券をとりましょう。

「JR京都駅」(八条口)下車1.1km徒歩15分程度
京都駅から歩けない距離でもないが、往復徒歩だとそれなりに疲れる。
東寺一箇所で、健康のために、気晴らしにと思われる方には京都駅からの
徒歩も良いでしょう。

「近鉄東寺駅」下車0.6km徒歩10分程度

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 真言宗総本山 東寺(教王護国寺)
住所: 〒601-8473 京都市南区九条町1番地

最寄交通機関
市バス:京都駅前C4乗場から市バス16系統「八条大宮」or「東寺西門前」、42系統「東寺東門前」、市バス19系統「東寺南門前」いずれも徒歩すぐ
電車:「JR京都駅」(八条口)下車1.1km徒歩15分程度、「近鉄東寺駅」下車0.6km徒歩10分程度



■ 新選組初の屯所 八木邸

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.9 新選組初の屯所 八木家


新選組初の屯所 八木家を訪れた。


壬生寺道で市バスをおり、梛神社(なぎじんじゃ)(元祇園社)を右手に「坊城通」を入っていく。
ここは、壬生寺へと続く道。


立派な長屋門と母屋は武家屋敷の造り、今から200年前に建てられ現在では京都市有形文化財に指定されている。

玄関を上がるとすぐ母屋の座敷でガイドさんが待っていてくださり、見学者はこの座敷で八木家さんや新選組にまつわるお話を聞くことが出来る。


当時八木家さんは、この地壬生村の郷士で地域を取り仕切る地方役人 (じかたやくにん)をされていた。
ご存知「壬生義士伝」や「新選組」のお話には必ず出てくる由緒ある名家。八木源之丞(やぎげんのじょう)さんは新選組隊士にとって無くてはならない大人物。

幕末期、各藩からの脱藩浪士が尊皇攘夷を叫び、多くのイデオロギーがぶつかり合う京都では「天誅」と称し幕府側の人々をあやめるテロ行為が横行した。幕府は京都守護職に会津の松平 容保(まつだいら かたもり)を任命していたが、それでも京の治安は回復に至らなかった。将軍の上洛も重なり、警備の徹底は急を要する。

そんな時期八木源之丞(やぎげんのじょう)さんが、この立派なお屋敷で、新選組隊士をお世話することになったという。

壬生に着くや否や将軍ではなく天皇警護を唄いだし江戸へ帰された清川八郎とその他大勢のなかから、将軍と京の治安を守るからと残ったのが13人、

水戸浪士グループの芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司が八木家母屋に
試衛館(しえいかん)グループの近藤勇、土方歳三、山南敬助、藤堂平助、井上源三郎、沖田総司、永倉新八、原田左之助が現在は、「京都鶴屋鶴寿庵」という和菓子屋さんになっている離れに腰を落ち着けることになったそうな。


将軍を守るという約束で、再度、松平容保に願い出て、「松平肥後守御預新撰組宿」の看板をここ掲げることを許された。これが新選組の始まりだということだ。

勿論、このあと京の街で勝手好き放題をし逆に治安維持の妨げになっていた芹沢鴨はじめ水戸浪士グループは近藤、土方の試衛館グループに、ここから15分ほどにある料亭「角屋(すみや)」で泥酔状態にされ、気分良く八木家にかごで連れ帰られた晩にまとめて暗殺されている。そう八木家こそがその現場と言うわけだ。

なぜそれらの新選組のエピソードが残ってるか、そしてどんな様子だったか等、詳細はいらっしゃるガイドさんのお話をお聴き願いたい。
新選組が八木家さんでお世話になっていた間に起こった事件等ドラマチックな事の経緯が見事に口伝えで語られている。芹沢鴨が酔わされたという、「角屋(すみや)」さんもそうだが、ガイドさんがいらしてくれるところでは、必ずガイドさんのお話を聴かないと損と言っても良い。
すでにガイドさんが伝えてくださる情報がブログやHP等で書かれているが、其の場所でガイドさんから直接お聴きできる情報の量と質に勝るものは無いと言う事を体験してみればご理解いただけると思う。


新選組のことも一気に頭の中で整理でき、壬生と言う土地と其の歴史についても教えてもらえた。
八木家では見学の後、前述の「京都鶴屋鶴寿庵」さんで「屯所餅」とお抹茶で一服できる。ここしばらくちゃんとした味の和菓子に当たってなかったなと感じるほど美味しかった。特産の壬生菜入りのお饅頭と、コクと清涼感の抹茶に「う〜んこれまじやな〜」と仲間と顔を合わせてうなってしまった。次回はあれをお土産にしよう。

八木家、壬生に来るなら是非立ち寄りたい。人を案内して連れてくるのも喜んでもらえるだろう。

「新選組 壬生屯所旧跡(八木家)」
●公開時間
 午前9時〜午後5時まで(受付4時30分まで)

●見学料 大人:1,000円(抹茶、屯所餅付き)
中・高生:1,000円(抹茶、屯所餅付き)
中・高生:600円(拝観のみ)

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名:新選組 壬生屯所旧跡(八木家)
住所:京都市中京区壬生梛ノ宮町24

最寄交通機関
市バス:京都駅からは乗場B4から26系統にのり、「壬生寺道」下車数分
電車:阪急電車「大宮駅」、京福電鉄「四条大宮」より徒歩10分。



■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.8 高瀬川一之船入

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.8 高瀬川一之船入の風情と偉人

高瀬川一之船入にまた偉人の足跡を観る。

高瀬川は江戸初期に京都、伏見間の物流のために創られた運河で、今では四条、三条、御池と木屋町通りを北上するのも、良い散策コースではないだろうか?


角倉了以(すみのくら りょうい)1554年〜1614年は京都の豪商で、時の権力から信頼されこの高瀬川を含め、天竜川、富士川というメジャーな河川の開削している。豪商となる上で、自分の商家近くに荷下ろし用の堀留めを持つことが重要と思われるが、彼の場合は運河の設計自体が、先立っているように思える。ここ京都では、琵琶湖疏水の設計で京都の近代化に尽力した田辺朔郎先生と並び、「水運の父」と呼ばれているそうな。

またここで、世のために何かを切り開いた偉人に出会えたのは、とてもうれしい、それもこころが緩むこの春の風情の中で。


地元の方のお話では、ここで舟を堀の奥へ入れて、方向転換や、荷揚げ下ろしをしていたので、さぞかし賑わっていただろうという。最盛期には、百数十の舟が行き来していたので、それはもう喧騒といえるほどであったのだろう。この木屋町通の名前も、多くの材木商が軒を連ねて居た事が由来とされている。因みに、幕末にはこの周辺に、長州藩邸や桂小五郎、海援隊本部に使われていた酢屋さん、土佐勤皇党の武市半平太、天誅組の吉村虎太郎、などが近所で居を構えていたという。

川や運河は其の土地の歴史と今昔の人々の想いを知り、また風情などを楽しめるので、堀留め、舟溜りの跡を見て歩くのも一つの見方になりえると想われる。
森鴎外や、吉井勇など文学や詩の題材としても、取り上げられているこの川、川べりに座りすわり、一仕事終わった船頭がキセルをふかし、ぼんやりしている情景すら浮かんできそうな情緒だ。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名:高瀬川一之船入
住所:〒604-0924 京都府京都市中京区河原町通二条下る一之船入町付近

最寄交通機関
市バス:京都駅市バス乗場A2番から、17系統「京都市役所」下車、木屋町通へ徒歩4分程度
電車:京都地下鉄東西線「京都市役所駅前」駅3番出口からホテルオークラの裏手へ徒歩4分。



■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.7 桂小五郎と幾松

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.7 桂小五郎と幾松さん後の木戸孝允と松子夫人

ホテルオークラの南側に長州藩邸跡、西側に桂小五郎先生像を見れた。

高瀬川を更に北上し、御池通にでると京都ホテルオークラに出る。急な雨に打たれ、ホテルの駐車場に飛び込むと、長州藩邸跡の石碑が。


ここが昔長州藩邸であり、あの桂小五郎先生が出入りしていた場所である。



坂本龍馬、中岡慎太郎両先生亡き後、いくつもの血なまぐさい事件や小競り合いがある中、なおも京都の行く末を見届けようと、ボロをまとい、加茂川二条河原に身を潜めていた。
それを助けたのが、丸田町の北、三本木と言う町にあった吉田屋の芸者、「幾松さん」だという。彼女が心配しておにぎりを造って差し入れていたそうな。

幾松さんといえば、泣く子も黙る新撰組局長、近藤勇に、「お宿改めである!」と踏み込まれた吉田屋の玄関で、桂かを匿っているだろうと、問い詰められるも、シラを切り舞を舞う度胸があったという。
流石の近藤さんもその度胸を気に入り、その日は見逃したという話は有名だ。

当時、二人は京都ホテルオークラの裏手、木屋町沿いに居を構えていたという。現在はそこに、「幾松」と言う旅館があり、そこには、加茂川に抜ける抜け穴が残り、つり天井まであると言われている。幾松と言う名前、今では京おんなの粋さと心意気の象徴のように感じる。

明治維新を向かえ木戸孝允(きどたかよし)と名を改め廃藩置県、五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)制定に尽力。幾松さんは晴れて正妻となり、松子夫人と呼ばれた。


(写真京都市役所)
明治10年西南戦争が起こり、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新三傑」と呼ばれた彼は、東京から京都に戻り、戦の成り行きを見守る。
しかし、病に倒れ、最期は大久保利通の手を握り、「西郷もういい加減にせよ」、とうわごとを言いながら5月26日45歳で逝去したそうな。

其の後幾松さんは、東京に戻らずあの桂さんとの思い出の場所であるこの地に留まり、木戸孝允の菩提を弔うべく、尼僧さんになり翠香院(すいこういん)と名乗り、まるで跡を追うように44歳でなくなっている。龍馬とお龍さんのロマンスが有名であるが、この桂さんと幾松さんのお話も捨て置けない。

この大人物を偉大たらしめたのは、志半ばでこの世を去った盟友達への想いか、それとも、粋で美しく、気の強いあの幾松さんが握ってくれたおにぎりだったのか、どちらにせよ、桂先生が幕末・明治維新と生き残り、この国のために尽力できたのは、冷静沈着にして、柔軟性を持ち合わせていたからなのかも知れない。

尊王攘夷倒幕運動のリーダー的存在でありながら、「逃げの小五郎」と揶揄されるほど、幾度かの危機をすり抜けた彼は、人を斬ることを良しとしなかったそうな。そう彼は刀を武器ではなく、精神の象徴として持っていたに違いない。それができた数少ない偉人だったのだろう。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名:長州藩邸跡、桂小五郎先生像
住所:〒604-0924 京都府京都市中京区河原町御池‎

最寄交通機関
市バス:京都駅市バス乗場A2番から、17系統「京都市役所」下車すぐ
電車:京都地下鉄東西線「京都市役所駅前」駅3番出口からすぐ。



■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.6 吉村虎太郎寓居跡

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.6 吉村虎太郎寓居跡を観た。

櫻咲く高瀬川べりで吉村 虎太郎寓居跡を見る。

高瀬川を四条から歩くだけで、多くの志士達ゆかりの地が密集している。
ここでは、(木屋町三条付近)天誅組の吉村 虎太郎寓居跡を見れた。


吉村 虎太郎は龍馬と同じ土佐の脱藩浪士、武市半平太に剣術を師事、もともと攘夷志向の強い若者で土佐勤王党に加盟、伏見の寺田屋で捕縛され土佐に強制送還・投獄されるも、再度京都に戻り、公家中山忠光(明治天皇の叔父)を旗印「天誅組」を組織し、大和国(奈良県)で挙兵するも、政変で一変し天誅組は壊滅、幕府軍の討伐で奈良県吉野で27歳の若い命を散らせる
と言うのが、おおかたのお話のようだ。

公家を担ぎ出し、古代に自治国として認識されていた大和国で挙兵すると言うのが、何か純粋、頑なに貫かれた彼の思いのようなものを感じる。


たて看板や本を読み、彼の人となりを想うと、何かやるせない。
歴史に詳しい先生にお聞きすると、若すぎた・早すぎたと言うご意見が。
詳細は取り上げないが、やはり血気盛んで激情の若者と言う印象である、これも実際その時代に生まれ、時流を見れば、恐れられるだけが妥当だとは成らないだろう
皆がこのままではならない、我がやらずしてなんとすると心から信じて動いたに違いない。

辞世の句に「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」と天誅組と呼ばれ過激に生き急いだ彼を感じるが、せめてしばらくはここで同郷の武市半平太のお隣に居を構えた日々があったことは、幾分の慰めと成っただろうか?虎太郎先生今の京都の櫻も吉野の櫻も奇麗ですよ。

後の明治10年に名誉回復がなされ、24年には武市半平太や坂本龍馬・中岡慎太郎と同様に正四位が贈られているので、歴史の記録に残るだけではない、何かが吉村 虎太郎を知る人の心の中に残っていた事を言葉少なに語っているに違いない。

話は戻るが、ここもその他の藩士、浪士達ゆかりの地と目と鼻の先。
海援隊本部に使われていた「酢屋」さんから高瀬川を挟んで歩いても数分。
本来なら合い入れない考えを持つ当時の志士達がこの近距離ではすぐ見かけて斬り合いになると思わなかったのだろうか?と疑問になったが、その時代の高瀬川は物資運搬の舟が行き来して、その賑わいが、潜伏するには打って付けだったという。追われる者ほど人込みと喧騒に身を隠すと言うことなのだろう。奥行きがある町屋や旅籠の二階、奥なら隠れられることは、町屋カフェなどに行くと納得できる。だから京都は落ち着けるのかも知れない。

場所名:吉村虎太郎寓居跡
住所:京都市中京区三条木屋町上ル35番路地

最寄交通機関
市バス:京都駅市バス乗場A2番から、205、17系統「河原町三条」下車徒歩5、6分
電車:阪急河原町より徒歩10分、京阪三条より徒歩5、6分



■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.5 龍馬・海援隊士をかくまった酢屋さん

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.5 龍馬・海援隊士をかくまった酢屋さん(創作木工芸 酢屋)を観た。

坂本龍馬をはじめ、海援隊をかくまい隊の本部として部屋を提供した酢屋さんを見れた。

攘夷派・開国派と言うイデオロギーに賛同してか、それともお客さんならば命を張ってかくまう、という心意気があってかは色々の事情があったに違いないが、とにかく、かの時代の京都の商人さんの中には、浪士・隊士をかくまったり住居を提供するという気甲斐性(きがいしょう)と情に厚い人が多かったに違いない。


酢屋さん(現在)「京都 創作木工芸 酢屋」 海援隊が本部として借りていたことで、有名だそうな。
この二階にどのような面子が揃っていたか、は歴史の勉強をされた人ならお分かりかと思うが、今日はこの酢屋さんに注目しておこう。しかし知識と想像があれば更に豊かな物の見方が可能になるので、それはまた後日調べてみたい。


酢屋の二階からから高瀬川にかかる橋に向かってあの有名なピストル「スミス&ウェッソン モデル2アーミー」の試し打ちをしていたと、京都検定1級のボランティア「都草」のおじさんが話してくれた。


そしてここ酢屋さんから近江屋さんへ引っ越してから10日後に運命の11・15を迎えることになったと言うことだ。

現在、酢屋さん、「京都 創作木工芸 酢屋」 創作木工芸品を売っておられる。
私は、地元でも木工所を覗いては何時か自分でも作品を創ってみたいと思うので、今度是非木工という観点から訪れたい。ここ酢屋さんは私にとって一粒で2度美味しい。

話はそれるが、「都草」のおじさんのお話ではこの近くに後藤 象二郎/象次郎(ごとう しょうじろう)の寓居跡があるが、「日本で最初にLouis Vuittonルイ・ヴィトンの靴を買った人」だと話してくださいました。

「京都 創作木工芸 酢屋」
一階が「創作木工芸 酢屋さん」…11:00〜19:30(日〜木曜)、11:00〜21:00(金、土曜)
※水曜定休
二階が「ギャラリー龍馬」…11:00〜17:00…入場料:500円(中学生以下無料)
※水曜定休



地点マップ(PC用、携帯auでは開いた、docomoはどうかな〜)

場所名:創作木工芸 酢屋さん
住所:京都市中京区河原町三条下ル一筋目

最寄交通機関
市バス:京都駅市バス乗場A2番から、205、17系統「河原町三条」下車徒歩2、3分
電車:阪急河原町より徒歩5分、京阪三条より徒歩3分



■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.4 あの近江屋跡

■ 京都見る歩く(洛中編)Vol.4 あの近江屋跡へ

3月26日、坂本龍馬・中岡慎太郎両先生遭難の地へ


四条河原町の交差点、北西角から北へ少し歩くと、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)という石碑がある。


現在はサークルKサンクスさんの店先となっている。
ここにも特に最近写真を撮る観光客がふえたと言う。私が始めて子供の頃見たときは、パチンコ屋さんか何かであったような。父が熱心に教えてくれた頃私はまだハナタレ坊主でなにゆえ父がそんなに興奮しているか意味が解らなかったものだ。このサークルKサンクスさんには龍馬グッツが売っている。流石だ。まさにこの地でお土産を買うのも粋である。

あの運命の11月15日、ここにあった「近江屋」の戸をたたく者が。
私は十津川郷士です。ここに坂本龍馬先生が居ると聞きましてと、龍馬の下僕に名刺を渡すが早いか、一気になだれこんだ数人に刀を抜く暇も無く、志半ばでやられてしまったという。男が死線を一緒に越え、盟友となるには生まれた日は別なれど、死する日は一緒であると覚悟したかどうかは、定かではないが、とにかくこの夜、海援隊と陸援隊の将が帰らぬ人となる。諸説あるが、中岡慎太郎は翌日かよく翌日に亡くなったが、坂本龍馬はこの日が誕生日だと言う。これは、後世の人間からすると、命数を使い切りお役目をまっとうされたと思うのか、どうなのか、複雑である。それこそ、歴史は後世の人間によってのみその質を判断されてしまうし、受け取られてしまう。まして、自分がその時代その場所に居合わせて目撃したとて、それをどう受け止めて良いかすぐには解らないだろう。
しかし、この国で小さなことにこだわらづ、世界に目を向けこの国の行く末を真剣に考えた、大きな男が二人失われてしまった事に変わりは無いだろう。

あの日、それを知った桂小五郎先生はどんな思いだっただろう?他の隊士はどれほどの動揺だったであろう?

このあと、十津川郷士の正体は、鳥羽伏見の戦で戦死してしまったと言うことで、ずっと謎であったようだが、近年龍馬を切った脇差を持っていたのが、桂早之助という短刀使いの名士であり、それを調べ出したのが、後の早稲田大学教授、川田瑞穂さんであり、奇しくもその川田さんが先の大戦直後、玉音放送の起草をされた方であるという事実はなんとも運命の数奇さを感じてしまう。これに関しては、幕末維新ミュージアム霊山歴史観の学芸員で本の著者でいらっしゃる木村武仁先生に特別にガイドしていただくと言う幸運に恵まれた時に初めて知った。その前に同じ展示資料を読んだにも関わらずだ。歴史については注意深く展示物を読むことが大切だと思い知らされた。話がそれたが、あの幸運を頂くチャンスを下さったTさんにもう一度感謝。

地点マップ(PC用、携帯auでは開いた、docomoはどうかな〜)

場所名:坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)
住所:京都府京都市中京区河原町通蛸薬師下る付近

最寄交通機関
市バス:京都駅から乗り場A2から17、205系統河原町方面へ乗り「四条河原町」下車、徒歩2分程度
電車:阪急河原町駅から河原町通を北へ徒歩5分 

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