■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.33 「蓮の咲く寺と観音さん」

■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.33 「蓮の咲く寺と観音さん」


平成24年度洛陽三十三所巡礼報恩法要

法要のためのお経は、坊さま達の朗々たる声の倍音ともうねり併せて、柱や格子天井へと染みこんでゆく。目を瞑る私の意識も、呼び覚まされる様な安堵にひたり共鳴している。
ところは京都東山二条、洛陽三十三所観音巡礼の第八番札所、大蓮寺(だいれんじ)。平成24年度の巡礼報恩法要は、4月4日に行われた。近郊からの巡礼者で、一度以上まわり終えた人々が招待される。

私もその一人だが、皆さん一様に観音霊場先達と刺繍の入った輪袈裟を首からさげている。すでに5回まわった人々は「中先達」、10回まわった人々を「大先達」と呼ぶ。

さすがに大先達とも成ろう人々の顔は違う。私は特に宗教を持たず、言うなれば八百万の仏神に掌を合わせ、頭を垂れる程度の中で育った典型であり、無知なのだが、精進や信心のため何かに打ち込む人々の顔というものは、何か角がとれた様でもあり、己にのみ向けられた厳しさを見る様に思えた。一度まわっただけの私は、京都の広さをかろうじて感じたぐらいで、その深さまでには到底およばないのだ。と、この日思った。

前日は春だというのにひどい嵐だったが、当日は驚くほどの日和。「これも観音さんのご加護と皆さんのご信心のたまものです」と笑顔で迎えて下さるご住職。

しばらくすると、多数の坊さまが入堂し、十一面観音がおまつりされた立派な須弥壇を挟み左右にずらりと座って行く。そして正面に高僧が座された後は、はじめに記した通りだ。


大蓮寺の十一面観音は平素、手厚く保護・安置され、この巡礼でも本堂の外から合掌させて頂いたように記憶しているが、巡礼報恩法要では、寺のご本尊である薬師如来の前に安置され、その姿を仰ぎ見ることができた。とても古く、見事な十一面を冠され端正なお顔をされている。ほとんどの札所の観音が秘仏となっているので、そうして年に一度の法要で直に拝見できるのが有り難い。が、ふと想う。5回まわって中先達、10回まわって大先達となるのも一興に違いないが、健康に長生きをして後32年に渡り、年に一度の法要に参加して、すべての観音さんのご尊顔を拝見するのもまた一興だ。

何にせよ。京の町をまわって歩いて、歴史や町の生い立ちを知るだけでも、かなりの勉強に成る事は確かだ。


さて、以前このお寺を訪れた時に気に入って、購入したものに「大蓮寺の走り坊さん」と言う、足腰健常のお守りがある。明治から大正期にかけて、毎日、京の町を走り回っていた坊さまが居たのだという。彼は、お産の近い妊婦のもとに走り安産のお守りを届けに行くのだ。と言うのも、この寺の阿弥陀さまは、もともと、女人の苦しみの一つであるお産を助けて欲しいと願った慈覚大師作と言われている上、後光明天皇(江戸初期)が夫人のために安産祈願をされたことからも、京の民衆の信仰を集めたのだろう。

そんな走り坊さんを紹介する、大蓮寺のホームページの文章の中で、また一つ再発見をした。大正7年の新聞記事の抜粋だそうだが、こういうのだ。「法衣姿に汚い頭陀袋をさげて(略)彼は緩急よろしきを得た一定の速力を以て毎日毎日走った」とある。あるいはこの「緩急よろしきを得た一定の速力を以て」というのが、自分の健康を保ちつつも、人々のために何かをし続ける秘訣なのかも知れないと、今になって妙にその一文に感じ入ってしまった。


「阿弥陀はんがついてはるで。」と、女人を勇気付けるべく走り続ける事ができた、と言うこの大蓮寺の坊さまの健脚にも肖りたいものである。
大蓮寺、また蓮の花がきれいに咲く頃、行ってみたい。


■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.8 大蓮寺(以前の関連記事)

大蓮寺(だいれんじ) (Dairenji)
拝観時間 Open 9:00-16:30
電話 075-771-0944
参拝料 無料 (Admission Free)


地点マップ(PC、携帯au、docomo)
場所名:大蓮寺
住所:〒606-8353 京都市左京区東山二条西入1筋目下ル457

最寄交通機関
市バス:京都駅前乗場D2から206系統で「東山仁王門」下車、徒歩2分
電車:地下鉄東西線「東山」下車徒歩10分程度



■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.32 なに故に三十三所か


 そして、これが洛陽三十三観音霊場を巡礼した証の先達証、輪袈裟、そして先達に授与される新たな朱印帳だ。
 今更ながら、洛陽三十三所観音巡礼について軽くふれてみる。
その起こりは古く、平安末期、第77代の後白河天皇により定められたそうな。
近畿には西国三十三所巡礼があったが、広域で大変なため、それに代わるものとして京都の洛中周辺で、もう少し身近に観音巡礼が出来るようにと言うことだったと思われる。
 室町期には、現在とは違う順路で定着したが、応仁の乱の戦による災禍が都ごと呑み込んで、もろとも衰退を余儀なくされた。
 江戸期に再開され、寛文五年(1665)、第112代の霊元天皇の勅命により、現在と同じ巡路に定められ定着したのだという。


 幕末・維新を経て近代化の時流と明治、大正、昭和の発展と喧噪の中に忙しく生き続けた人々の心から、巡礼も忘れ去られたようであったが、「心の時代」と言う言葉と共に、今一度立ち止まり、その「心」を取り戻そうと言う心もちになったのか、とにかく洛陽三十三所観音巡礼は三度目に「平成の復興」となり巡礼の人々も帰って来た。数年でその数も増えていると思われる。



 そもそも私が、洛陽三十三所をゆく、と決めたのは、可能な限り京都を知る、と言う目的の為だった。巡礼札所になっている寺院も、うまい具合に市内全域に点在しており、サイコロを転がしたり、ダーツを投げるよりは、はるかに目的に合っている様に想えたからだ。我ながら。良い着眼だったと、今は、思える。


お陰で、各巡礼先の寺院の寺伝や、関係者の皆さんのお話などから、京都の歴史や、歴史上の人物の後姿や横顔を良く見れた。
これは、ともすれば時流にのって現代に黄泉帰り、人々に勇気をくれ、町の活性化の先導と成ってくれるやも知れない、大切な偉人達である。



 今思い出すだけでも、あのお寺は、平清盛がいた、あそこには幕末に月照(げっしょう)和尚と西郷隆盛を逃がそうと奔走した、近藤正槙(俳優、近藤正臣さんの曾祖父)の碑があった。あれが新撰組の駐屯所、あそこが会津藩の兵千人が待機した、こっちは水戸藩士、あと、紫式部に建礼門院が・・・・と次々に記憶をたぐれる。無論、札所寺院の周辺や、その間も歩いたので、京都の地理も体に入った。


 道中。腰を下ろして京都の町の作られ方やその精神に想いを馳せたり、人や交通、商工業などを観たりもした。
 行くに伴い市バスの路線を大かた覚えてしまったのは、非常に重宝した。
例えば市バスの系統番号だ。若い番号は、市民の生活や通勤のため、いろんな道をゆき各停するものが多い。一方3桁の番号は、著名な寺院の多い、東山や北山方面を行き、観光客用になって、急行となったりもする。
乗りなれれば疲れている時は次のバスを待ったり、一つ上の乗り易いバス停を選んで混雑をやり過ごしたりもできる。



 市バスはともかく、全体をかいつまんで言うなら、私は洛陽三十三所(だけではないが)を通して、京都の全寺院や歴史は、国民の共有財産であり、大切に保護し、文化的価値を常に見直し。文化(文章化、碑文化、伝える)して行く。そういうこつこつと次の世代へ伝えて行く体勢を取れば、必ず観光客のみならず、市民のために成り得続ける。
そして、交通機関等の整備は、欧州のそれの如く。柔軟に考え、公共財と思い整備の方向性を環境と市民生活への負担軽減を想うものに変えてゆくか、もしくは、今現在も、市電と自動車を、的確に共存させ得ている、地方都市を、小京都として見直すことも良いと想われる。


 そうすれば、京都という多くの事柄(歴史、経済、交通、商工業)が重なり、織り成す古都も、古き良き物と新しいものが更に上手く融和し、世界に向けて、さりげなくも上品に胸をはれるようになるに違いないのであります。


 これは余談だが、時代劇に出てくる隠密(おんみつ)が行者や巡礼者の格好をしている訳が、わかったように想う。昔は巡礼者や行者、お伊勢、金比羅参詣者が、比較的にご公儀にあやしまれにくく、歩いてくに境や関所を通れた。歩けばその分情報も入る。隠密でなくとも、巡礼者、旅人を優遇すれば、他国の様子を知り得たし、気付かなかった物の見方についても話が聞けたに違いない。



 実際に観て歩く事は、実に有益なのである。巡礼と言う文化に感謝である。
何かを導かんとする人は、不況を連呼せずに、原点に立ち帰り良く観るべし。
一番骨の折れる部分を、他まかせにして、抽出した物を集める事を良しとし、そんな人間を珍重する。
 本来、何かを産み出すためには、心、頭、体を動かし、一つ一つ礎石を積み上げる人間がいるからこそ、城も建つのであって、それを忘れて、型、公式のみ先行し、内容がともなわない世は必ず瓦解する。それを思い出したい。


 これにて、私の洛陽三十三所観音巡礼は、結びとしたい。勿論、中・大先達を目指すが何かあれば、また書きたいと思う。
 「日本は物質的に裕福だが心が餓えている」と言ったのは、マザーテレサだったか。私もその社会で、闇を手探りで生きて来た一人であるが、大きな二つを学んだ。


 こつこつ積み上げれば何かが観えてくる。
 人に礼と義を以って、色々教わりながら歩く事。


この洛陽三十三の途中、腰を下ろした三条通で確信できた。そんな貴重な機会を許してくれた人々にも心から感謝したい。




■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.30 満願。第三十三番札所「清和院」

満願。洛陽三十三所観音巡 第三十三番札所「清和院」を訪れる。



 京都駅前から、市バス50系統で西洞院(にしのとういん)、堀川、と北西を目指す。50系統は座れることが多いので良い。そしてバスは中立売を西へ入り、千本中立売のバス停で下車する。



 昭和の風情を残す賑やかな北野商店街を通って三角形の広場へ出た。昔、市中をチンチン電車(路面電車)が走っていた。(明治28年〜昭和36年)商店街の道をいっぱいに使い、満員の人々を乗せた、にこやかな喧騒が目に浮かぶようだ。余談になるが、明治28年ごろ既に市電を走らせた、日本初。これには琵琶湖疏水蹴上発電所からの電力が使われていたと思われる。当時この国の首相は伊藤博文、清国とのいくさの真っ最中と言えばどんな時代だったかピンときて頂けるだろうか。

 その広場の木陰に座り、ポケットの中の広辞苑で「清和」と引いてみた。「清和院」、「清和源氏」、「清和天皇」とずらりと並ぶ。これほど縁(えにし)の深いキーワードが並ぶのも希(まれ)ではないか。まさに、三つのワードが、清和院の縁起と風雅な由緒を物語っている。

時代と想像は清和院に関することへ飛ぶ。

 あの壇ノ浦(下関)で、平家を打ち滅ぼした源氏の棟梁、源頼朝も、牛若丸でお馴染み義経も、清和天皇(56第)の子孫である。清和天皇の第6皇子、貞純親王の子息が、経基(つねもと)と言い、彼以後が帝より「清和源氏」の氏(うじ)を賜り、名実共に貴族武人となった。

 元来、侍の姿とは、帝の血を引き、心から帝と都を守り奉る武人らが、あるいは、中世の戦国武将より、正しい姿だったのかも知れない。
 若き日の足利尊氏も、四条あたりで競馬(きそいうま)に興じながら「我こそは源氏の血を引く者なり」と自分を奮い立たせていたに違いない。




 さて清和院の話である。前述の清和天皇が皇位を次へ譲位し、余生を過ごしたのがこのお寺の名前の由来だとか。今は真言宗の小さなお寺だ。

「まずは聖観音さんにお参りや」と、本堂をのぞく。中央最奥には見上げるほど大きな厨子。扉は閉じられ、表に大きな菊のご紋。「あの中に居やはるのやな」。

左側を見ると、真言宗のお寺らしく、古くて見事な不動明王、八臂(はっぴ)の弁財天、毘沙門様に、大黒さん。黒光りとはこのことだ。おそらく、長いこと、いずこかの護摩堂に安置されていたと思われる。


右に目をやれば、小ぶりながらも、荘厳な阿弥陀三尊来迎も立像。

これがまた、今まで見たことが無い角度で前にせり出している。例えるなら、マイケルジャクソンのムーンウォーカーぐらいの前のめり。

両脇を固めるは、合掌をし、ほぼ中腰の観音と、バレーのレシーブのように盆をもっている勢至菩薩。

動かぬ仏像にして、こけそうな子供にさっと手を出そうとする母親の如き慈しみと勢いを感じる。 阿弥陀三尊は往々にして座像で、両脇の仏が膝を浮かせるなどして、救いやお迎えを表現するか、立像でも足を一歩前に出すにとどまるものが多い。

しかし、ここで観たものは、躍動感と優しさを湛えている。
あとは、気になるどこか不思議な木造の地蔵菩薩が厨子の前に一体。

まあ、仏像ほど眼で観て、感じるに勝るものは無い、ので筆者が感動したと言う事が伝わればうれしい。仏像ファン方にはぜひ観ていただきたい仏様ばかりだ。


ようやく最後の三十三番札所のご朱印を頂きに事務所へ。

寡黙そうなご住職に、「あのぉ阿弥陀様の角度は圧巻ですね」と言ってみる。眼鏡のフレーム越しに私を見て笑顔になられた。

「このお寺の仏さんにも、色々面白い謂れが有りましてねぇ」と、寺の由緒から、明治の廃仏毀釈までの壮大なストーリーをほぼ聞かせてもらった。

 ご住職曰く、「聖観音さんは、五尺五寸(154cmほど)やから、等身ですわな。今は九州の国立博物館に居はります。皆さんには堂内のお写真で観てもらってます。」と、朝日新聞の一面写真を見せていただく。

「あのお地蔵さんね、清和天皇に似せて造られてます、天皇さんやから、お外へ出て頂く事はなかなか無いので、錫杖はお持ちでない。」

なるほど、不思議な感じは錫杖かぁと思うのだが、まだあった。

「あとは、眼に玉眼が入ってますね、昔は極彩色やったんですね、まあ、真言宗に来はったんで、護摩焚きますやろ、きれいに黒光りしてますわ。そうそう、観音様の洗いも大変でしたなぁ」と、笑っておられた。

その後、清和院が元々、京都御所の北東にあり、蛤御門同様、「清和門」が今も残っている事、江戸末期の御所の火災で現在の北野、七本松一条へ移った事、観音様は一条鴨川西岸にり「川崎観音」と呼ばれていたが、これまた1531年の火災で清和院とのご縁が始まった、と、言うように、小一時間は話をお聞きしたが、それこそ京都の名所や歴史に及ぶので、割愛させていただく。が、とにかく楽しいお話だった。

 さて、ご住職に良くお礼を申し上げて、清和院を後にする。また北野商店街の三角形の人場で腰を下ろす。

 
そこには、出雲阿国、宮本武蔵、土蜘蛛(土雲)塚に関する案内板がある。心のこもった手書きの物だ。

これ、これ!これこそが町に文化的、歴史的いろどりを与え、いつしか人が来るかも知れない第一歩。私のように外から来た者でも、この様な案内板が有るだけで、「次は近くのお店で団子でも食べて、ここを起点に散策しようか。」などと、初めての土地にも知らず内、愛着のようなものを感じてしまう。

清和院のご住職しかり、この商店街にしかり、労力を惜しまず、口伝、文章で土地の歴史文化や良さを教えてくれる人をこそ!私は本当の「文化人」と呼ぶべきなのだと思う。

おこの北野界隈の話、またいつかの機会に。とても大切なことだから。

さて、さて、次は洛陽三十三所観音巡礼、満願の証明と先達の公認を頂にもう一度、六角堂へ行こうと思う。

場所名: 清和院(Seiwain)
参拝時間:9:00〜16:00(Open)
拝観料:無(Admission Free)
駐車場:無
電話:075-461-4896
住所:京都市上京区七本松通一条上る一観音町428-1

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

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【市バス】京都駅乗リ場B2から50系統「北野天満宮経由  立命館大学前ゆき」に乗り「千本中立売」下車徒歩2〜3分
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■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.29 廬山寺 ご縁とはかくも不思議

 今日は洛陽三十三所観音巡第三十二番札所「廬山寺」を訪れる。


府立医大前の大きな交差点西へ、広小路へ入る。京都御所へ続く5月の新緑まぶしい道。まさに五月(さつき)晴れと言いたいが、五月晴れとは旧暦の言葉、つまり6月の梅雨時らしい。

仁丹の看板が現在地を教えてくれる。なるほど、私は府立医大から西へ入り、寺町にぶつかった。ちなみに京都では東西へは「入る」、南北へはそれぞれ「下がる」・「上がる」と言う。地図を見て説明するごとく。メイン通りの寺町から言うと、今いるのは「広小路通寺町東入」となる。一見ややこしそうだが、歩きなれてくるとこれほどやさしい説明はない。これも京都文化の一つと言えるのでは。


ここから北へ「上が」り寺の門が見えてきた。ふわふわとそぞろ歩きで来たものだから驚いた。この廬山寺、あの紫式部が「源氏物語」を執筆し住んでいたところだったのだ。
「ここで、紫式部に出遭うのは少々手に余る」と聞いたような台詞が頭を横切った。何しろ時空を超えて存在できる稀有な文豪であり、ユネスコですら世界五大偉人として認識している天才である。


門をくぐってまずは、大師堂へ礼拝、「如意輪観音菩薩」に万物安堵を祈願する。

ご詠歌「これもまた くらいもたかき てんのうじ さながらにはや くもいなるらん」

いつもなら、寺伝などを読みご朱印をいただいて帰るところだが、紫式部のおわした所なれば、じっくり観て行きたい。「源氏庭」と言う。ご朱印と合わせて拝観料を納め入れていただく。はたと目につくのは、まぶしいばかりのお庭。白い砂礫(されき)に山を模した苔のコントラストが、やはり、心を落ち着かせてくれる。通り抜ける5月の風と、紫式部がのこした文化の香りには、まさに風雅と言う言葉がぴったりくる。

ここがその場所である。と、言う事は、古大学の大家にして平安の世を愛しておられた角田文衛博士の考証(昭和40年)発表によって広く知られるようになったそうな。また大正14年には英国の東洋学者アーサーウェイリー博士の英訳による源氏物語が世界的なベストセラーにしたという。ますます考古・文学の香りがしてくる。

関東からの女子校生だろう、紫式部関連の展示に見入っている。「あの絵巻物は本当にレプリカなんですか?」と寺の人に聞いている。「そうです、絵巻物は巻いても広げても保存が難しいし、大切なものですから」と言う会話が聞こえた。

縁側に座り見回すと、行儀の良い女子校生、ご法要にこられた喪服のご家族、お坊様に、枯山水。2年近く京都を歩いているが、こんな光景は初めてだろう。

さて、この廬山寺とえにしが深いのは文学だけではない。長い歴史を通して朝廷、宮の人々ともえにしが深い。たびたび戦場となった京都、いくさ火による消失を免れることが難しかったのは言うまでも無い、が、しかし、天下人や国が変わる時に生じたこのお寺存続の危機を2度、天皇側によって辛くも免れている。何か見えざる力に守られているのかと想ってしまう歴史があるが。それには寺伝を紐解く必要があるので、お付き合い願いたい。

開山は元三大師、比叡山天台代18世座主(938年〜947年)、天慶と呼ばれた世に京都北山の船岡山に草創される。後に、法然上人の弟子、覚瑜が寛元元年(1243年)に同じく船岡山に再興し慮山天台講寺と号し、道俗貴賎と身分の問いなく人々が集まったという。


室町時代、応仁の乱には同じ船岡山に城塞が築かれ戦火を逃れることは出来なかった。しかし特筆したいのはここからである。元亀(げんき)・天正(てんしょう)と言えば、ご存知信長と秀吉の世、特に元亀3年(1571年)信長による「比叡山焼き討ち」。比叡山に関係する寺院は焼き討ちリストに入れられ、この廬山寺も対象にされた。しかし、正親町(おおぎまち)天皇の側近女官がしたためた書簡によってこの寺の焼き討ちは取りやめられた。世に言う「女房奉書」と言うものだ。

よほどの名文だったのか、いや、信長はそんなことでは納得すまい。なんでも女官が文書を渡したのは明智光秀だったらしい、それこそ『明智なら是非もなし』とはこの時点からだたのか?
いやいや、きっと、石山合戦(今の大阪城の位置)でのいくさに手を焼いて、正親町天皇の御名のもと和睦(わぼく)という手段をとったことへの借りを返したのか?などと詮無いことを想ってみる。

そして、天正には秀吉が京都に入り、寺町を造成する、このときから廬山寺は船岡から、御所の真横、寺町に移ったといわれる。いみじくも、その場所が同じ宮(みや)の女官・女房のであった紫式部のいた場所であったのは偶然だろうか?私には、正親町天皇の女官の「女房奉書」にこめられた想いが紫式部の心を打ったような気さえする。

ここで時代を明治まで下る。明治初年に起こった廃仏毀釈では、仏教排撃、神仏分離、神道国教化の大波が起こる中、明治天皇の御意により、勅使が出され、「昔から宮中の仏事・法要を執り行った四ヶ寺の一つである」とのことから、復興さえされている。


この四ヶ寺だが、他には、右京区の二尊院、北区の遣迎院、上京区の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)であったそうな。

そしてもう一つ、突然時代が遠くさかのぼるが、用明天皇の御代、聖徳太子が北野天満宮あたりを金山天王寺と呼び本尊として如意輪観音を安置した、その観音様を船岡山にあったころの廬山寺が何かのご縁で本尊とした。残念ながらそのときの如意輪観音は火災で消失したが、鎌倉時代に飛鳥時代のつくりを再現して彫りなおされている。

聖徳太子はこの京都の金山天王寺、大阪の四天王寺、東京谷中の天王寺、伊勢の天王寺をこの国の天王寺、四ヶ寺とした。

さて、女官・女房の位にいた紫式部、正親町天王の女官からの「女房奉書」、宮中の仏事を司る四ヶ寺、そして聖徳太子が建立した天王寺の四ヶ寺。長い歴史とはいえ、これをさっぱりと「偶然だ」と言うのは、非常に勿体無い気がする。

場所名: 廬山寺(Rozanji)
参拝時間:9:00〜16:00(Open)
拝観料:源氏庭 500円(Admission)
駐車場:有
電話:
住所:〒602-0852 京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397


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【市バス】京都駅乗リ場A2から205系統「四条河原町経由 北大路バスターミナルゆき」17系統「河原町通経由 銀閣寺 錦林車庫ゆき」4系統「深泥池経由 上賀茂神社ゆき」に乗り「府立医大病院前」下車西へ徒歩3分
【電車】京阪 鴨東線「出町柳」より徒歩15分、「丸太町」より徒歩20分
いずれも御所を目指し、寺町通へ
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■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.28 東向観音寺

 今日は洛陽三十三所観音巡第三十一番札所「東向観音寺」を訪れる。


北野と言う所は、京都の北西に位置する。遠い昔から帝以外の権力者が居場所を得てきた微妙な方角だと言っても良い。「北野天満宮」で有名なこの地は、つまり時の権力に疎まれて太宰府送りとなった、あの菅原道真公を御祀りし、そのお怒りを静めるとともに常人ならざる学識にあやかり、毎年受験生が学問の神として崇めてやまないのである。

北野天満宮のニの鳥居の前で左をみると、その東向観音寺だ。名前の通り東を向いている北野天満宮のために作られたいわゆる「神宮寺」だった。以前もここへ来たとき、ふと「感覚」のようなものが働き、「ここは東を向いて茶店などが開けた町だったに違いない」とつぶやいたことがある。


後に安土桃山時代の地図を見るとやはり、ここには天満宮から今もある上七軒に伸びる道が2本あり全体が東を向いている。やはりそこは東へ向くことに何か意味があったのだろう。今のように南に向かって整備はされていなかったようだ。

ご詠歌「ふみわけて ここにきたのの ひがしむき こころはにしへ はこびぬるかな」

本堂のこうしの間から十一面観音様のおみあしを見て手をあわせる。道真公本人の作と言われている。この境内では少年道真公が勉学に励み、南北朝時代には天皇も足利尊氏も帰依されたという。


この東向観音寺の境内に図らずも興味深い歴史の跡を見つけることが出来た。
一つは、この京とが平安の都となる前からこの地に先住部族として住んでいた「土蜘蛛」と呼ばれる消えた民の塚である。つまりは時の帝に従わず、「夷敵いてき」「夷えびす」なものとして成敗されてしまったのだろう。日本の歴史にはこういったことが、あたかもあやかしを討つのだ、とばかりに幾度か繰り広げられているが、これもその一つに違いない。

そしてもう一つこの土蜘蛛の塚の横にあるのが菅原道真公の母君の塚だ。とてつもなく大きい。勿論天満宮の二の鳥居をこえたすぐ脇に「伴氏社ともうじしゃ」と言う小さな社があるのだが、この東向観音寺ないで本当の塚を、しかも土蜘蛛の塚の真横に見つけたのは、なにか静かな衝撃だった。


勝手な想像かも知れないが、「土蜘蛛」と呼ばれた民とて、誇り高き部族であったに違いなく、道真公の母君とて後に「学問の神」と後世にまでとどろいた鬼才を生み出した凄い人だったに違いない。偶然とはいえ、この組み合わせがこの「東向観音寺」の境内に観る光景だというのは、なんとも複雑な気持ちになる。しかし、このお寺の静けさと暑い供養のお祀りがなんとも言えず、平和な空気をかもし出している。

因みに土蜘蛛の塚が見つかったのは明治年間とあり、とても最近だ。願わくば道真公の母君の優しい笑顔に見守られ、素朴で孤高な土蜘蛛の民には母君のそばを守っていただきたいものだ。


本堂左のお地蔵さまには我が子の健康を祈る親、保護者により、ヨダレかけを幾重にもかけられている。そこで胸を熱くしたのはそのお地蔵さまの前の床に人が立った足跡が窪になり丈夫な本堂の床板を変形させていることだ。まさに子を思う母の思いは丈夫な板に足跡を残すほど。子を持つ喜びの分、その子をいかしめようと思う心はまさに修行に匹敵するのかもしれない。


本堂は現在真言宗泉涌寺派に属しているようだ。
帰りに北野天満宮の梅を見て帰る。まだ肌寒かったが、梅の花はいつも長い冬が終わった事を実感させてくれるから一番嬉しいかもしれない。今年は2月11日〜3月下旬まで楽しめるそうだ。

行ってみないと解らない。行くってみると発見と感動がある。まさに是なのである。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 東向観音寺(HigashiMukiKannonji)
参拝時間:9:00〜16:30(Open)
拝観料:無(Admission Free)
駐車場:無
電話:075-461-1527
住所:京都市上京区今小路通御前通西入上る観音寺門前町863(北野天満宮参道西隣)

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【市バス】京都駅乗リ場B2から50系統「北野天満宮経由 立命館大学前ゆき」に乗り「北野天満宮前」下車徒歩3分
【電車】
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■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.27 椿寺 地蔵院 歴史に驚く

今日は洛陽三十三所観音巡第三十番札所「椿寺 地蔵院」を訪れる。


雪のちらつく寒い日だったので、おそらくこれから向かう北野のあたりは少し積もっているだろう、と想いながら京都駅で市バス205系統に乗る。七条通りを西へ入ったバスはやがて都の西の大通り「西大路通」を北上し始める。西大路通は良く繁盛しているタコ焼き屋さんや、ビンテージジャケットなど本物志向な洋服店などが目に付く。

都の西の大通りへ出てそこからは北へバスば走る。時折バスから見える北山は美しい雪化粧。雪の大文字も良いものだ。北野白梅町バス停で降り今出川通りを越え南下する。雪が降った後の西側の町は独特の情緒が在って良い。


西大路一条の交差点を東へ入るらしい。目的地の「椿寺 地蔵院」の山門はまだ美しい雪の冠が。

このお寺にも古い歴史と変遷がる。始まりはあの名僧「行基」が聖武天皇の勅願により摂津の国に建立した地蔵院。平安から室町時代初期までは衣笠山麓にあり戦火で消失したが、時の将軍「足利義満」が金閣寺の余財で再建したのだという。


流石は将軍様、「これ、新衛門、一休をよべぃ」と遊んでおられた訳ではないらしい。その後、豊臣秀吉公の命により現在の地へ。

さて「椿寺」と呼ばれるこのお寺。寺庭の椿は雪中とて青々と強く葉を広げ春を待つと言うわけだ。北野で開かれた大茶会で多くの天上人が目にした椿の末裔だという。特別に秀吉公からの献木だそうな。「五色八重散り椿」と呼ばれるそれは、通常の椿のようにコトっと花ごと落ちるのではなく、花びらを一枚また一枚と緑の苔庭に落として行くのだとか。それもまた良きかな。


ご詠歌「かんのんへ まいるおてらを たずぬれば なにかわばたの じぞうどうと」

お参りさせて頂いた十一面観音様は観音堂内の格子の向こうに金色に輝く。
細身な立ち姿。左手には細長い水差しのような壷を持っている。法衣のヒダがなんとも美しい。このように見せて頂けるお寺は少ないので本当に嬉しくなる。


お寺の奥様に「あのように丁度良い灯りで金色に輝く観音様を見せて頂けると、グッときますね〜」と声をかけると、「せっかくお参りに来て下さるのだから、見て頂きたいんですよ。」と答えてくださった。椿の咲く頃もう一度来よう、と開花した椿を想像しながらお寺を後にする。


冷え切った体を温めようと寺の北東にある喫茶店で熱い紅茶を頂く。年老いたマスターが、今はどうか知らないが、寺の椿は文字通りの五色で紫や黄色い椿は本当に奇麗だったと思い出を語ってくれた。そのほか、忠臣蔵で赤穂浪士のために尽力した「義商天野屋利兵衛」の墓此寺にありという石柱もあった。在ると想うだけで十分浪漫が満ちていく。「天野屋利兵衛は、あっ、男でぇござるぅ!」「よっ!中村屋!」ってね。
ここにも、驚きの歴史を持ったお寺がひっそりとある。良いですね、京都は。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 椿寺 地蔵院(Tsubaki Tera Jizouin)
参拝時間:9:00〜16:00(Open)
拝観料:無(Admission Free)
駐車場:無
電話:075-461-1263
住所:京都府京都市北区大将軍川端町2

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【市バス】京都駅乗リ場B3から205系統「西ノ京円町・金閣寺道ゆき」、乗り場B2から50系統「北野天満宮経由 立命館大学前ゆき」、乗り場B4から26系統「北野白梅町経由 御室 山越ゆき」、101系統「北野天満宮 金閣寺経由 北大路バスターミナルゆき」で「北野白梅町」下車徒歩3〜5分
※101系統本数少なし。205快は金閣寺へは行かない。
上記3つの系統から都合の良い時間を待って乗ってください。
【電車】京福電車「北野白梅町駅」下車数分
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■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.26 福勝寺ひょうたんと桜

今日は洛陽三十三所観音巡第二十九番札所「福勝寺」を訪れる。


大宮の賑わいを幾分つなげるように北上した千本通は出水との交差点。周囲は昔ながらの呉服店や現代的な店が同じ軒を並べる言わば生活かん溢れる下町だ。

古びて赴きのある不動産屋と平成22年末で惜しまれながら閉店した朝日餅菓子店の角から西へ入っていく。車がギリギリで通る一方通行の道。


途中に「法衣・袈裟専門」クリーニングと書いた看板を上げているお店の中では店主が忙しそうにアイロンを当てている。これも京都歩きをしないと見る事がない光景だ。

一歩西へ入ると何処までも平地が続く風情ある路地に幾つもの寺院が人々の生活と密着している。いわゆる寺町だ。古都の道幅残す京都の街角、是が電線の無い昔ならさらにスカッと都の西に果てまで見えたことだろう。


固く閉ざされた山門。この福勝寺、「ひょうたん寺」とも呼ばれ春の節分の日のみ門を開き一年分の福と商売繁盛を願う人々で大変賑わうそうな。その門の西側から本堂へと進む。ここは京都薬師霊場の第六番でもある。

お寺のお母さんに頂いた「福勝寺のこと」と言う奇麗な冊子にある寺伝によると、中興の祖を三位少将藤原兼季の子として生まれた覚済僧正と伝えられている。後に名寺院の醍醐寺の第四五代座主(ざす)や東寺第八十代法務を務め大僧正に任じられるという高僧だ。このお寺にも長い歴史がある。


馴染み深いところでは、太閤秀吉が武運長久を願い、このお寺の歓喜天に帰依し瓢箪を奉納し戦におもむいたということだ。荒ぶる神仏で邪魔を払う歓喜天に祈り戦勝の度に奉納した瓢箪を持ち帰る。それがご利益で瓢箪は数を増やし、いわゆる「千成瓢箪」が秀吉公の旗印となったのだという。

本堂前の「左近の桜」は咲くはずも無い冬でも美しさを感じる枝ぶりが見事。


ご詠歌「みやびのか ふるかんのんの さくらでら みちびきたまえ きよきこころに」
そろそろ「聖観音菩薩」が安置されているであろう本堂に向き合掌。ご朱印を頂いていこう。毎月1日と16日には本堂内の参拝が出来るので是非来てくださいと勧めていただいた。

冬の寒さに静まり返った境内はそれだけで無言無心の心持ちにしてくれる。賑やかなお寺も良いが私はこんなお寺の方を個人的に好んでしまう。観光も良いが、信仰の姿や変遷を見ることに、人間の精神活動に必要な深い要素を垣間見ることが出来るのもお寺を静かに楽しむ妙味かと思う。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 福勝寺(Fukushyouji Temple)
参拝時間:9:00〜17:00(Open)
参観料:無(Admission Free)
駐車場:無
住所:京都市上京区出水通千本西入ル七番町323-1

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【市バス】京都駅乗り場A3から206系統(時計回り)「千本通北大路バスターミナル行き」に乗り「千本出水」下車徒歩3分※D乗り場の206は反対方向です。
【電車】
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■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.25 壬生寺と民衆と信仰にふれる

今日は洛陽三十三所観音巡第二十八番札所「壬生寺と民衆と信仰にふれる」


バス停壬生寺道で降りると梛神社(元祇園社)の真ん前。その角に面した「坊城通り」を北に下る道が壬生寺へ向かう道だ。

壬生と言う土地、平安の昔には湿地が広がり、水豊富と思われたが「ややもすれば泥水涌出して礎石もうくるに堅固ならず」と云われ、朱雀院や都と少し距離を置きたい、時のやんごとなき人々のお屋敷、寺院等は比較的高地を選び建てられたと言う。

その後、当時の難民に銭、食料を払って土を運ばせるなど地盤改良され、ようやく民家が出来始め農地化出来るようになったのがだとか1400年代後半〜1700年代にかけて。そしてあの新選組が近所に屯所を借りるまでには更に150年の年月が経っている。


壬生菜(水菜の一種)と云う名前を聞いた事があるかも知れないが、それも壬生特有の地質や水によるある種の順応と変化によるものだろう。その美味な事からその名がついたのだとか。京都にはその地特有の気温や水の恩恵を受け独特な形や味になる野菜が結構あるのも感慨深い。ある食事どころで食べた京かぶらなどは絶品だった事を思い出す。


元々水豊富の土地柄にて、農業には有利かと思いきや、二条城の掘りから引いていた用水の確保には住民と周辺寺院の連名て幾度もお上への嘆願書が出ている。その壬生郷の寺・民・士族の苦労は実に明治新政府宛てになるまで続いたそうな。

おそらくは近代に入ってからの土木治水技術や琵琶湖疎水から京都に新しく流れ込んだ水源のお陰できれいな井戸水と用水がきっちり分かれ、八木邸跡の菓子屋さんなどで造られるような銘菓が誕生して行ったのではないかと思う。


さてようやく壬生寺についてだが、御本尊は本堂に安置された延命地蔵菩薩だそうな。地蔵とは天界の神仏とは違い、町中や民衆、農民のそぐそばにあり撫でてお願いごとが出来る、ごく身近で分かり易い存在なのだと言う。

まさに前述の農民や寺院が相互に助け合い「より良い世」への願いと努力の積み重ねが今も続く地蔵菩薩への信仰の中に受け継がれているのだろう。私が足を運んだ日が境内にある水掛地蔵を新しくしたお祝い法要の日であったようだ。

その他、民衆との強い関わりを想わせるものとして有名な「壬生狂言」と呼ばれるものがある。およそ7百年前の鎌倉時代に円覚上人が始めたもので沢山集まる民衆に台詞が聞こえなくては意味がない。そこで上演内容を今で云うパントマイム化(無言劇)、にしたのだと言う。この狂言からも壬生寺と民衆の強いつながりや、壬生と言う土地のふところの深さなどが感じてとれるのではないだろうか?

今の人々の間ではこの境内が新選組の教練場であった事からその名を知っておられるだろうが、それも壬生地区と壬生寺の長い歴史の一コマであり、このお寺は多くの時代の人々と出来事を寛容に見守り包み込んで来た大きな寺なのだ。と私は思う。


ご詠歌「しゃくじょうの おとなりひびく みぶでらに ごうりきするは このほとけなり」
なるほど御本尊の延命地蔵菩薩様やこのお寺が大切にするお地蔵様がならす錫杖の音に力を合わせるように観音様がおいでになると言う事ですかな?

さて一通りお参りしてから最後に壬生寺中院にて十一面観音さまに手を合わせ御朱印を頂いて帰ることにする。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 壬生寺(Mibudera Temple)
参拝時間:9:00〜16:30(Open)
参観料:無(Admission Free)
駐車場:無(但し門前にコインP8台駐車可)
住所:〒604-8821 京都市中京区坊城仏光寺北入る
電話:075-841-3381

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【市バス】京都駅乗り場B4から26系統「北野白梅町経由 御室 山越ゆき」に乗り「壬生寺道」下車南へ徒歩5分
【電車】阪急「大宮」駅、嵐電(京福電車)で「四条大宮」駅下車西へ徒歩10分
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■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.24 平等寺(因幡堂)楽しげな時が流れる不思議なお寺

今日は洛陽三十三所観音巡礼第二十七番札所「平等寺(因幡堂)」を訪ねる。


市バス「烏丸松原」で降り京都銀行を背にすれば、すぐ分かりやすく寺の参道にある大きな常夜灯が目にはいる。裏側に「安政四年八月・明治廿五年九月再建」とある。ここは京都の主要道路烏丸通り、当然都会の賑やかさの真っ只中。しかしひしめくビル群にも負けないぐらいの存在感。平等寺(因幡堂)の敷地の分だけ高い建物がすっぽりと抜けたように空が広く見える。

寺をぐるりと囲むように道路がありこの一角には高い建物が無く爽快だ。江戸中期の因幡堂境内の図を見ると周りのビルやマンション群も広範囲に渡って寺の敷地だった様子がわかる。


平等寺「因幡堂縁起」の駒札を読む。むかし、むかし、因幡(今の鳥取)の国司・橘行平(たちばなのゆきひら)が任期を終え京に帰る途中、夢のお告げに従い因幡賀留津(がるつ)の海中から引き上げ安置した薬師如来像が行平を慕って飛んできたという。男前(に違いない)の行平は長保五年(1003)自宅を改造して是を手厚く祀ったという。「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)


この「情」をくすぐる縁起は天皇から一般庶民にいたるまで愛され深く信仰された。後の承安元年(1171)に高倉天皇いより「平等寺」と命名されたそうな。因みにこの如来様、「嵯峨釈迦堂」「信濃善光寺」と並ぶ「日本三如来」に数えられる在り難いもの。

ご詠歌「まよいいで ここはいなばの ひがしむき こころはにしへ はこびぬるかな」


十一面観音様にお参りする。こちらは毘沙門天、不動明王像、役行者などの真ん中にちょこんと仲良くおずしに座った2体の十一面観音様だ。こうしを覗くと開かれた厨子にかけられた錦の覆いの間から、体半分ずつがみえる。

昔は町衆の寄合や狂言の上演でにぎわったそうな。京都では壬生狂言などが有名だがこの因幡堂での狂言ば演目名がその「因幡堂」。つまり物語の場面や内容がはっきりと特定でき曲名になっている物として珍しく、内容がまた面白い。


狂言「因幡堂」を簡単に云うと、ある男が酒呑みの妻が嫌で、実家に帰し離縁状を送りつける。男はこの因幡堂の薬師如来に「如来さま〜どうか私に新しい妻を取らせておくれやす」と夜通し祈っている。それを知った酒呑み妻は腹を立て、お告げの如く「西門に立っている女を妻にせよ〜」と言ってから、ダッシュで西門に向かい衣で顔を隠し立ち尽くす。大喜びした男は早速祝言を挙げ盃を交わす時、衣をはずすとそれはあの酒呑み妻だったので「なんでぇ!」と腰を抜かす。
参考文献「狂言における因幡堂の位相」by林和利(名古屋女子大学教授)


ご朱印を頂きしばし本堂前の椅子に座る、もう一人の若い女性がご朱印をもらっていたが、ご朱印帳にあの陰陽道の牛蒡星の刺繍が・・・、ほしいなあれ。不思議と本堂の前の椅子に座りいつまでも居たい心持ちになる。それはきっと昔からこのお寺が人々が集まりガン封じのお祈りや、寄り合いに狂言など楽しい時間への人々の思いが沢山残っている場所だからに違いない。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 平等寺(因幡堂)(Byoudouji Temple)
参拝時間:8:00 17:00(Open)
参観料:無(Admission Free)
駐車場:無(但し境内に3台駐車可)
住所: 京都市下京区松原通烏丸東入因幡堂町728

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【市バス】京都駅乗り場B4から26系統「北野白梅町経由 御室 山越ゆき」または乗り場A1から5系統「平安神宮 銀閣寺経由 岩倉操車場ゆき」に乗り「烏丸松原」下車徒歩2分
【電車】阪急「烏丸」駅下車徒歩5分、地下鉄烏丸線「四条」駅下車徒歩5分
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■ 京都見る歩く(洛陽三十三所観音巡礼)Vol.23 正運寺

今日は洛陽三十三所観音巡礼第二十六番札所「正運寺」を訪ねる。


四条大宮バス停で降りるとそこは、京都西側の繁華街。嵐山へ向かう京福電気鉄道や阪急電車に加え車やバスが忙しく行き交う交通の要所で真冬にも関わらずとにかく賑やかだ。
目的地の正運寺(しょうんぢ)は蛸薬師通りに近い。蛸薬師は少なくとも四条より北に位置するはずだからバス停を降りて北へ進む。

と、品の良いおばあさんが声をかけて下さる「失礼ですがどこへ行かれるの?」「えー、大宮蛸薬師を探してますが迷ってます」と答える。

どうやらバス停名は「四条大宮」だか降りた場所は大宮通りから突然斜め北西に伸びる「後院通」と言う道だ。「京の街は碁盤の目」だと良く言うが、聞けば「後院通」は京都で唯一の斜めの通りだそうな。これは大変珍しい。


大宮通りは阪急大宮駅とりそな銀行の間を通る細い一方通行の道にかわる。京都の飾らない下町と言う感じがとても良い。

タバコ屋の奥さんからは大宮通は参勤交代に使われた道で元々この道幅であり、それより南は現代用に拡張された道端。なるほど南へ目をやると大宮通の東側の軒先が四条大宮交差点を貫き真っ直ぐ引かれていた事が良くわかる。各電鉄会社の四条大宮乗り入れのため、交通の利便性を計り今のような形になったらしい。


おっとこんな所に噂の「仁丹看板」。昔森下仁丹さんが広告と同時に世の役にたつには?という発想で住所を表示するホーロー看板を考案したそうな。その看板を愛好する人々をジンタニアンとよぶそうだ。昔京都に働き出てきた丁稚(でっち)さんたちもお使いや配達の道標となり励ましとなっていたことを体感する。

大宮通りを北へあがり、「やまさき整骨院」で左折(西入る)するとそこが正運寺のある蛸薬師通だ。町屋が軒を連ねていたであろう細い道、表示が無い。


少し歩くと蛸薬師通の北側に正運寺が。気づけばあの「大宮通」「後院通」の喧騒が嘘のように閑静なお寺。砂利と石畳が奇麗にしかれた寺庭は「凛として無駄が無い」と言う表現しっくりくるだろうか。

寺伝を記すものが見当たらなかったので、書物で観ると「寺は慶長5年(1600)に、肥後藩主・加藤清正に仕えた武将・飯田覚兵衛の意をくみ開山」。「勝軍寺といったが武将が平穏を願い正運寺と名を変えた」とある。う〜ん、乱世を生きる戦国武将もそうするしか無かったのだと自問自答し続けたのだろうか?

ご詠歌「ながらへば さとりもひらく しょうんぢ いのちやのりの たからなるらん」


さて「十一面観音菩薩」に手を合わせる。小さなお堂の格子から覗くと40cmほどの小さな仏様は暗くて解らないがどうやら見事な彫りのよう。穏やかなお顔が見えたのは嬉しい。なんでも奈良の長谷寺のご本尊と同じから名仏師・運慶が彫ったという。天明の大火でも安置されていたお厨子とともに無事であったとか。

おまいりした女性がこのお寺で無事出産したことから、女性の参詣が絶えないという。
言葉に出来ない武将の思いからはじまり、この世に命を生み出す愛念の思いまで、この小さな秘仏が何百年も見守ってくださるのだ。


参考図書「京都ことこと観音めぐり(京都新聞出版センター)」←実際に歩いてからこの本を読むと、その文章の素晴らしさが大変勉強になる。歩いた人ならそう思うことがあるだろう。

地点マップ(PC、携帯au、docomo)

場所名: 正運寺(Seiunji Temple)
参拝時間:9:00 16:00(Open)
参拝料:無(Admission Free)
駐車場:有(無料)6台
住所: 京都府京都市中京区蛸薬師通大宮西入因幡町112

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【市バス】京都駅乗り場A3から206系統(時計回り)「千本通北大路バスターミナル行き」に乗り「四条大宮」下車徒歩5分※D乗り場の206は反対方向です。
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