□ 河内近郊ー恩智城趾と桜と楠

今春は寒暖差のため、季語では初春とされる梅と晩春とされる菜の花が同じ畑に咲くという景色を見た。目には美しいかも知れないが、病臥より這い出したばかりの私にはとてもこたえた。3月下旬に入っても気温の差異で今度は梅と桜が入れ替わり、近所の染井吉野は今日3月30日、正に満開だった。


勿論、桜が並木となって開花する姿は美しいが、目に映る如くに、写真に撮ろうと思うとなかなか難しい。遠くから見るとピンクが鮮やかではあるが、近寄ると思いの外白い。光の加減や自分の目線など、そんなことで色や印象が大きく変わる事に気づかれる方も多いだろうと思われる。
「なるほど、桜ちゅうもんは実物も良いけど、心象風景にこそ優雅に咲くもんかもな・・・」そんな事を独りごちると、ふと、また私の心はこの地の歴史に遊びに出ようとする。

約40年程前になるが、私はその頃大阪の北端に在る島本町水無瀬と言う所に住んでいた。その町をほぼ南北に通る国鉄(現JR)の線路と、京から天王山の裾である山崎、高槻を経由し兵庫の西ノ宮に至る、西国街道に挟まれる様にして「桜井駅跡」と言う、鎮守の森的様相の史跡があった。
「駅跡」と言うは、鉄道の駅ではなく、古代律令制の時代に制定された30里ごとに馬を乗り継ぐところの「駅」の事だが、地元の人々はその森を「楠公(なんこう)さん」とよんでいた。

母は屡々(しばしば)幼い私の手を引いて、そこへ散歩に出てくれたが、そこは彼の楠木正成公が延元元年、1336年、京に攻め入る足利尊氏軍迎撃に向かう途上、息子・正行(まさつら)に遺訓を残しつ「さらば河内を頼むぞ」とばかり今生の別れをした場所である。

※(写真はJR島本駅開業記念に地元の酒屋さんからの依頼で作ったお酒のラベルの試作。
子別れの像は今もJR島本駅に半分、土地を分けて桜井駅跡にある。)

その件(くだり)は『太平記』の「桜井の別れ」として、室町時代から物語僧や講釈師によって広められている。
  楠木正成は畿内の要所である摂河泉(せっかせん)、つまり摂津、河内、和泉を守護していた。
 さて、その河内に今の私は住んでいる。移り住む頃初めて最寄り駅に降り立ち、最初に目にとまったのが、此の地に関する由緒書である。手作りだが立派なもので、それを読み何やらご縁めいた感じ、同時に敬服の念を抱いた。
以下にその由緒書を心からの敬意と共に謹んで記したい。

  「恩智左近満一は楠木正成公の八臣の一人で恩智の豪士墓は御廟と呼ばれ恩智城趾を望んで建碑さる この現在位置より東方四00mの高台に大樹を傘に廟のあり左近満一ここに眠る」

※(写真は恩智左近御廟2011年)

  「恩智の桜(九桜(きゅうおう))一株に九本の幹が出て桜が咲き人集まりて九桜と名付く 恩智城趾に桜を植え九桜の名を今に残す 城趾の桜は現在位置より東方五00mの高台にあり見事の一言につきる 眼下の眺めも又格別である」

※(写真は2009年の恩智城趾の桜)

「あー、引っ越した先が、楠公さんのお味方の領内かー。」と勝手ながらご縁を感じた。又、私の住む町内は「神宮寺」とよばれ、ここが八臣のもう一人、神宮寺小太郎が治めた地である事も何か気分が良い。
 歴史に興味を持ったのはここ数年の事なので、「南北朝時代」や『太平記』については、恥ずかしながら勉強不足なので、追っ付け知って行きたい。

 以前にも触れたが、恩智左近と言う豪士は社家(しゃけ)の出で、いよいよ本格的な武装が必要な時勢になり、この地の高台に自然の地形を利用した城郭を設けたが、自分の家が代々司る恩智神社よりも高く位置したため、「神への不敬よろしからず」と、さらに上の山中へと神社を移したと言う。

※(写真は天王の森の桜、近鉄恩智駅から神社への道。その昔ここに恩智神社が在ったそうな。)

当たり前と思われるかも知れないが、そうした恩智氏の家風と恩智左近満一と言う男の人となりに、忠心の篤さと言うものが在ったと想像しても、良いのではないかと思う。

又、神宮寺小太郎であるが、「神宮寺」とは神社に付属するように置かれた寺であり、上代より、社家に生きた人々の菩提を弔う役割もあったことから、或は、神宮寺氏はその家系でり、恩智左近と神宮寺小太郎の墓の近さからも、彼の時代、隣り合った荘にいた二人の男が一蓮托生の誓いと覚悟を堅固に持っていたのではなかろうかと、勝手な想像をし、そうであってくれるとさらに身近に彼らの後ろ姿や、横顔を思い描く事が出来そうである。
無論、彼ら二人の関係をしっかり裏付ける物を見た訳ではないので、これらはあくまでも私の勝手な浪漫的空想に他ならないのだが。

(※この鳥居から↑が恩智神社、右→の小道を道なりにゆけば恩智城趾。車はおすすめできない。)

更なる空想を許して頂くならば、楠公の臣であっただけに、二人とも敵軍勢数万に対する自軍数千、いわんや数百であったとて、名高き智将楠公が展開する巧妙な山城・山岳戦、囮(おとり)やゲリラ作戦に身を投じて、信じた大将と、領民一族のために命数を使い切って行ったのに違いない。

たとえ、後世語られる奇策、応戦の物語が戦場伝説の類いであったとしても、伝説に成るほどの将のためなら、命を賭しても不服無之(ふふくこれなし)と思えるのが、その時の男と言うものであったのでは在るまいか。(現代の将は煙に巻く如く己イの一番に雲隠れする手合いが多いのが残念である。)

 最後に今一度、駅前の由緒書に戻りたい。
あの文中にある「九桜(きゅうおう)」だが、今はどこにあるのかと思い『八尾の史跡』と言う本を読んでみた。「先年まで墓の傍らに(略)今は枯れて全く見られない」とあった。いささか残念ではあるが、今は「大樹を傘に廟のあり左近満一ここに眠る」と言うは、あの由緒書どおりだ。地元の郷土史に詳しい方にお聞きしたお話では、江戸時代の絵図にその九桜が描かれているという事だから、その桜は江戸末期の品種改良で出来た染井吉野ではなさそうだ、もちろん之も確認した訳ではないが・・・・。


 桜、松、菊とこの国の歴史の中には、その時代や時勢を物語る花や樹木が象徴として、大切にされて来たようだが、私は幼い頃から体をあずけて一休みさせてもらえる楠が一番好きだ。楠の木陰はいつもほっとできる。

今一つ触れておきたいのは、この由緒書自体であるが、達筆で文の内容からはこの土地と歴史への想いが感じられる。
 地域振興のために、ゆるキャラなどを考える短期の志も大事だが、このような心の込もった由緒書を後世に残すと言うような、長期の志がまず下地に無ければ、歴史は埋もれ、過去にその土地で生きた人々の生き様から学ぶと言う文化的、歴史的遺産は残らない。

※(恩智城趾・旧恩智小学校校門)

 私は、先ずその土地に住む人が、歴史、文化そして今をよく観て愛していかなければ、その土地は単なる開発か衰退かのどちらかをたどると思えて仕方ない。そんな事を思うと、この駅前の由緒書は正に町の人も、桜を見に来てくれる人々も「文化」してくれる物のお手本のように思うのだが、俄にはご理解頂けまいとも思う。

「近鉄大阪線 恩智駅」

「恩智城趾」

【お知らせ】
今年、25年の桜はもう散っています。念のため。4月10日現在



□ 河内近郊ー司馬遼太郎記念館にゆく

 私には、一日そこで過ごしたくなる○○記念館がある。
写真、美術、文学などの道を切り開き、大いなる精神の遺産を残して下さった先人、その人自身の存在を全館に感じられる、そんな場所。いわば、そこは私にとって神殿のようなものであり、その先人の懐(ふところ)そのもの。

こころが休まり、孤独を生き抜く勇気を取り戻せる所。

一つは、入江泰吉・奈良市写真美術館。そしてもう一つが、ようやく行けた「司馬遼太郎記念館」だ。ここも同じく、一日中いても飽きない、安堵と勇気をもらえる所だと直感する。


近鉄奈良線、河内小阪駅に着く。記念館への案内図を見つけ改札を出た、が、「あれ?北て、どっちや?」と案内図を回していると、本屋の人が指を指して「あそこに大きな字で、看板が出てますよ。」と教えてもらう。見ると、小阪商店街(スカイドーム小阪)というアーケードの入り口頭上に「司馬遼太郎記念館」と立派な看板。「すごい、町ぐるみだ。」何故なら、目的地までは一キロ近くあるからだ。

活気あるアーケードを見ながら歩く。帰りにあの蕎麦屋に行こうか?など、色々目移りしながら。


商店街を抜け、ほっとするような住宅街に入っても、随所の電柱に案内図がある。「この町すごいな」そう思いつつ、中小阪公園の前を通る。そこには「二十一世紀に生きる君たちへ」という文学碑。「うん、まったくだ」と納得してしまう名文。司馬遼太郎という人には、今の日本社会の様子が予想、あるいは、見えていたのか?と思うほど。


記念館に着く、司馬氏が好んだという雑木林が成すお庭、その日はツツジが鮮やかだった。文を書くには、多くの事典や史料を読んでは整理し、また書く。そんな空(くう)のような思考をとらえるのは、好きであっても骨の折れる作業に違いない。だから氏は、自然に近いこの雑木林の庭を見ながら心をととのえていたのかもしれない。私も、氏が見ておられたであろう方角から庭を眺めて深呼吸をした。


振り返れば、氏が創作を行っていた部屋だ。まさにここで、文と智の巨人、司馬遼太郎が数万の本と、思考という広大無辺の歴史と宇宙を展開しておられたのかー。そう想うと体に電流が走ったように鳥肌がたった。そのやさしい書斎には、未完の作品「街道をゆく-濃尾参州記」執筆中のままで大切に残されている。

館内は明るくさわやか、展示は氏の執筆活動を励まし続けたであろう膨大な事典、日本各地の郷土史やあらゆる史書物がおよそ2万冊。更にご自宅側にはご自身の著書を含めて6万冊。これを一人の人間が読み、書いた。

まるで氏が何を観てきて、考えておられたか、頭の中を見学している心もち。

人間の頭の中は、宇宙のように弘大だがゆっくりとした時間が流れている。時計には刻む事が不可能な時間。きっとそんな時間が大切な何かを育て、良いものを作り出すに違いない。館内の本に囲まれて、そう想った。

恥ずかしながら、本を読み、文をか書き始めたのはここ数年という私。それまではまさに文明ではなく文暗生活だった。しかし、この記念館のように、本棚に囲まれるのは心地よくてしようがない。書店や図書館のそれと違うのは、氏の着眼で収蔵されたからだろうか?

一つ思い出す。子供のころ、よく円形の部屋の壁を埋め尽くす本棚に可動式のハシゴをかけて、読みあさる夢を見ていた。

もちろん館内の本はイメージ展示であるから、触れることは出来ないが、あの夢の感覚に似ている。が、しかし、記念館は私の夢の想像など軽く超えている。本を見上げると、そのまま後ろへ倒れてしまいそうだ。

「後ろへコケそうになりますね〜」と学芸員さんに会釈すると、「これ、読んで見てください」と、大きな明かり取りの窓がある壁際に案内してもらった。

読む。「え〜ほんまですかぁ?」、観る。「うわっほんまや!」。
それは、驚きと共に楽しくもあり、温かくもある物だったが、それが何であるかは、行ってのお楽しみにしておきたい。

聞いたところで、この「へーっ!」は伝わらないからだ。
個人的には行く人の目で直接見て欲しい、家族にも、知人にも「おもろいし、ロマンがあるから見てきいや」と言う事にしたい。

それにしても良いパンチだ。

1Fに戻る。小さなカフェの横には氏の作品の販売コーナー。特にこの記念財団からの選書である。大きな本屋でも見つけられなかった本もある。

すべてに司馬氏の、あの座談的で気さくな何かを感じる。数年前NHKで再放送された番組、ダンディーなスーツでソファーに座り、JazzyなBGMが流れ終わった直後に、「え〜、司馬でござぁ〜っす」という、あれ。

TV的演出では何か、大先生をお迎えして・・・という雰囲気で視聴者を構えさせるようだが、じっとカメラ目線で待った後の一言の挨拶で、肩の力を抜かせ、気付けば話に聞き入ってしまう、あの感じ。


私は歴史に明るくない上に、他の愛読者の皆さんにしかられるほど、氏の作品を知らない。が、氏の対談や座談的な物腰や、実際に歩いて踏査のうえ、氏が愛情と冷静の間で観じた「土(国)や人への想い」、そのありようが大好きで、つまりは、大変失礼ながら、氏の作品の前に、ご本人の人となりが好きなほうだ。

早速、書籍、Goods売り場で、記念館の「サポート会員(個人)」に入会。一般会員でも良かったのだが、それは、そこ、氏へのリスペクトと記念館の永続を心から願って。

記念館パンフから少し引用したい。
「また、多くの人々の参加で新しいコミュニケーションの輪を広げたいと願っています。建設のさい募金を呼びかけましたのもその一環でした。(略)ともに文化を育てたいという思いもありました。」

私は大いにその考えに賛同したい。何故なら今日の日本は、読み書き話すという文化の低下で、思考とコミュニケーションを失い、色々の問題を抱えてしまったのだと、想うようになったからだ。


今回は「二十一世紀を生きる君たちへ」を購入し、その文学碑の横で、つまり帰り道の中小阪公園で読んだ。

「ええ、先生、今この土(国)は先生が心配されたようになりながらも、先生の信じられたように、皆あきらめずやってますよ」と、もしこの世紀の町角で私が、司馬遼太郎氏に問われたら、きっとそう答えたい。




□ 河内近郊「やさしい楠の下で」


長い体調不良が続く。リハビリと体力回復をかねて近所を歩く。
私が住む中河内(なかかわち)は物部氏、弓削氏、聖徳太子等古代からの歴史がひっそりと重なるところでもある。


恩智神社の鳥居を右へ。旧家の多いのんびりとした緩い坂道を右へ、右へ。
私はこの八尾へ移り住んだころ、ほぼ毎日、ある武将のお墓に参らせていただいた。「恩智左近満一公」である。


前述の恩智神社の社家の出であり、地元中河内の豪族にして、楠正成公が八臣の一人である。彼が楠公とともに南朝を守り転戦したことは、太平記を読んだり見た方ならご存知かと思う。


私はいつもそうなのだが、そこを目指して行くということが少ない。歩いていると、吸い込まれるように、そんな場所へ入って行く。駒札や、石碑を読み「これは、失礼をいたしました」と初めて手を合わせ頭をたれる。



大きな楠があたかも恩智左近の墓を包むように立っている。この季節になるとここへきて新緑の風を感じるのが好きだ。楠の下はどうも落ち着く。これは、物心ついたころ、以前住んでいた土地に通称「楠公(なんこう)さん」という小さな森(現在はJR島本駅)で母に手を引かれて座った楠の下に似ているからかも知れない。


そして移り住んだのが八尾で、ここが楠公さんの要臣、恩智左近公のお膝元だったことには何か縁を感じずにはいられなかった。



話を恩智左近の墓へ戻そう。
これは以前から気づいていたのだが、何故かその日は、突然もっと知りたいと思った。公の墓の左脇にある16基の墓石。それらは明治初期に西南戦争へ行った地元の若者達の墓である。


皆、一様に「大阪鎮台」「兵卒」とあり明治10年「行年廿○」とまだ二十歳前半の青年である。


あくまでも想像だが、おそらく、彼らは10かそこらへんの年頃に年号が慶応から明治と改められ、それまで戦(いくさ)はお侍がするものだと子供心に、鳥羽伏見の戦いの話を聞きかじっていた程度だったかも知れない。しかし、幕末の機運から維新がなり、この日本が国総出で列強と肩を並べるべく走り出した。各地の鎮台がそのまま旧帝国陸軍の管轄となるまでの一歩、いや、二歩手前に居合わせてしまった時代だったのかもしれない。


私は、その静かな楠の下や、あるいは、フェンスに体をあずけて彼らの墓石に問うように観た。



氏名、出身村、出征地、没所を苔の上から注意して観る。彼らは、平素私が医者へ通ったり、本を買いに行く先の近隣、「志紀」「西弓削」「渋川」「高安」などから官軍に入れられ遠く「日向(宮崎)」、「肥後(熊本)」、「筑後(福岡)」まで行った。


彼らは、西郷隆盛ですら抑え切れなかった不平士族の姿を見て、あるいは、空中で玉がぶつかり合う砲火の轟音を耳にして、いったい何を思ったのだろう?


「明治十年○月、肥後国二俣村ニテ負傷、長崎病院ニテ死ス、行年廿二」
「筑後国鍋田村ニテ負傷、久留米病院ニテ死ス、行年廿三」などはおそらく何らかの手当てを受けて誰かに看取られて逝ったであろう若者もいれば、


「明治十年、三月四日、肥後国、田原阪ニテ戦死、行年廿二」とある。やはり田原坂などは銃・砲撃の苛烈な火力に負傷した友を引きずりだすこともできなかったのだろう。
田原坂での戦死が多い。


しかし、中に一人、「鹿児島県下、上野原・○山ニテ戦死、行年廿五」と刻まれた墓石がある。風化での欠けですべて読み取れないが、おそらく彼は西郷さんが最期を迎えたあの城山公園の付近で、同じく最期を迎えたのだ。



急に風が強くなり、楠の葉がざわめき始めた。私はふと我に返り、恩智左近公と彼ら河内の若者16人に深く頭を下げ、「ありがとうございました。皆さんのお陰でええ国になりましたよ。」と声に出さずに言う。


心からそう言える国になって欲しい、というのが本音だが・・・。


【住所】八尾市恩智中町5丁目付近
【最寄駅】近鉄「恩智駅」下車、西の恩智神社方向へ徒歩15分


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